1998年 モエレ沼公園(札幌市)が示唆したこと 大地をデザインしたイサム・ノグチ

(二〇世紀のデザインあれこれ 119)

 ひろがる緑がみずみずしい。そして、なにより広い。「これが公園なのか」と驚いたのが北海道・札幌市の郊外にあるモエレ沼公園①に足を踏み入れた時の印象である。
 だが、よく知ればこんな印象どころではなかった。北海道という環境のせいもあるが、日本の「公園」という概念からは遠く離れ、あちこちに展開された山や噴水、遊具などの造形のレベルが並みのものではない。自然との共生にアートが融合し、さらにかつてこの地が札幌市のゴミ集積場であったことを知ると感動を覚えたものである。
 モエレ沼公園は前年のビルバオとは異なり爆発的な経済効果こそ生まなかったが、「自然との共生」を具現した世紀末の日本における見事なデザインである②。デザインしたのはミッドセンチュリーから日米両国で活躍した彫刻家イサム・ノグチ③で、彼は「人間が傷つけた土地をアートで再生する」と言い、人生の最後に大地をデザインしたのである。
 この頃の日本は経済不況であったが、携帯電話だけは普及し前年には3000万台を突破する。それと同様にコンピューターと関連する情報機器の力が増す中、国内外の多くのデザイン領域でデザイン・ジャーナリズムが好んで取り上げる「尖ったデザイン」が溢れ返る。しかし、こんな状況とは真逆のモエレ沼公園がこの年70%が完成し第一次の開園をひそかに迎えていたのである。(グランドオープンは2005年7月1日)
 ノグチの仕事を知ったのは50年代半ば。彼が1951年の来日時に岐阜提灯をモディファイした「あかり」という照明器具である。彫刻作品などに触れたのは1966年のニューヨーク生活でのこと。MoMAでの彫刻作品やダウンタウンで当時話題の高層ビル・チェイスマンハッタン銀行の石庭。ハーマンミラー社のショールームで出会ったのがガラストップのテーブルで、これは在席していた事務所のジョージ・ネルソンがハーマンミラー社に製品化することを提言したものである。ジョージからイサムとの出会いについても小耳に挟んだことがあったが、マンハッタンのダウンタウンの街角に出現した巨大で真っ赤な「レッド・キューブ」には圧倒されたし、大阪万博での噴水も記憶に残る。
 イサム・ノグチのことを世間では彫刻家としているが、家具や照明器具、さらに庭園や大地までデザインしたのだから多彩なクリエーターというべきであろう。
 そんな彼が北海道のモエレ沼公園に関わるようになったのが1988年。これをグランドオープンまで設計統括をした建築家の川村純一との出会いが契機であるが、3000分の一の図面と2000分の一の模型を残して1988年の暮れに急逝する。未だ簡単な図面ができた段階だからプロジェクトが中止になっても不思議ではなかったが、以後に関わった多くの人たちの苦闘により2005年に完成する。その経緯などに関しては川村純一らが著した『建設ドキュメント1988—イサム・ノグチとモエレ沼公園』④に詳しい。ここに記された数々の記録を読むと、ノグチの没後17年間にわたり根気よく関わった建築家や造園関係の人達の情熱と労苦には頭が下がる。その一方で、札幌市の当時の桂市長をはじめ行政の人達の辛抱強さにも心底敬意を払いたい。時には「イサム・ノグチの印籠」を示されながらの無理難題に対応し、工事金額も総額で250億円の大金を17年間もの永きにわたりゴミ集積地に投資し続けたのである。これは行政としても稀有なことであろう。
 モエレ沼公園が今日の姿で完成を迎えたのはイサムの急逝があったからだ、と上述の本の著者がいう。それは「イサムが生きていれば途中でトラブルを起こしギブアップしただろう」というのである。が、私はそうは思わない。ノグチが生きておれば、自らの年齢を考えディテールなどの課題に対して即決していただろう。

 ノグチが鉛筆で描いた0.5㎜の線が3000分の一では1.5mの幅になるという。残されたチームはそれを解釈してディテールを決めるのはさぞ大変であっただろう。時にはアメリカへノグチの過去の仕事を見に行ったり、時間をかけて議論したり、彼の造形感覚に忖度を重ねて決めていったのである。驚いたことの一つを記すと、一辺29mの巨大な三角錐「テトラマウンド」(画像参照)を構成するステンレスのパイプの直径が2mになっているのは模型の細い棒から決められたようだが、こんな巨大なパイプはなく接合してつくる方法を知るために札幌の業者がニューヨークまで行き学んだという。これはほんの一例で、全ての制作には関係者による議論と試行錯誤が重ねられた。
 ここで、モエレ沼公園を「単にアートで公園をつくった」などと言ってしまうのは安直すぎる。これは次世代のデザインのあるべき方向を示したのである。
 20世紀のデザインは、1929年のアメリカでの大恐慌を発端に消費を喚起することをデザインの役割として発展してきた。特にモノづくりではマーケティングなどと称して人々のニーズを探り、それが高じて「欲望」を掻き立てるモノづくりは大量生産、大量消費へと進み、地球資源を食いつぶし、環境を汚してきたのである。
 この公園が示唆した21世紀のデザインの方向は次の二つである。一つは「自然との共生」、もう一つは「共生社会」(ユニバーサルデザイン)という視点である。この頃から地球の温暖化や海洋プラスチックゴミ問題により地球が危機に瀕するといわれ、自然(地球)との共生はデザインの今後の方向として避けて通れない課題であった。
 モエレ沼公園は、かつてのゴミ焼却場を再生した上に春には桜が咲き、夏には水遊びや噴水などが楽しめ、秋には紅葉、冬にはスキーやそり遊びができるなど四季折々の魅力を満たしたことに加え、禁猟区域にすることで渡り鳥の飛来が見られる静かな水面が広がる。入園者は出たごみなどは持ち帰らせることとしている。そして、なんといっても中心施設である「ガラスのピラミッド」の環境調整が化石燃料に頼らず、夏は「雪冷房システム」⑤、冬はアトリウム上部に滞留する熱を取り入れていることで、自然と共生している。
 もう一つのテーマである「共生社会」に関しての第一は、ノグチの人間、特に子供たちへの愛に満ちた思考と造形である。他にも障碍者のための専用駐車場やAEDの設置に加え、園内のトイレは車いす利用可能である。もちろん車いすや幼児のためのベビーカーを無料貸し出しすることもこれまでの公園とは異なるが、山や遊具などにバリアがないわけではない。安全性に関しても行政側との議論が交わされ今後検討し改変の必要なものもあるとされている。
 モエレ沼公園は年間70万人以上の入園者はあるが入園料は無料で、その上年間1億5000万円程度の巨額の維持管理費が必要であるという。総工費の250億円は偶然にも前年のスペイン・ビルバオのグッゲンハイム美術館とほぼ同額である。しかしビルバオ市はこの美術館により爆発的な経済効果を生んだ。死にかかっている街をデザインで再生することももちろん重要であるが、これは20世紀のデザインが目指してきた方向である。
 一年遅れて札幌に現れたモエレ沼公園を、地球環境が危機に瀕する21世紀のデザインが志向すべき方向としてデザイン史に記されてもよいのだが。見かけることはない。

① モエレ沼公園は札幌市の市街地を公園や緑地の帯で包み込むという「環状グリーンベルト構想」の拠点として計画された札幌市の総合公園。面積は約188.8ha。入園料などは無料。

② デザインが評価された主なものは、グッドデザイン大賞(2002)、土木学会デザイン最優秀賞(2007)、日本建築学会賞(2008)などがある。

③ ノイサム・ノグチ(Isamu Noguchi, 1904〜 1988)は、1904年に日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれ日米両国で多くの分野で活躍したクリエーターであるが、世間では彫刻家として知られている。1950年代から日本での拠点として香川県の牟礼にアトリエを構え彫刻作品を制作。現在「イサム・ノグチ庭園美術館」(1999年に開館)となり彼の彫刻作品を見ることができる。

④ 川村純一、斎藤浩二『建設ドキュメント1988—イサム・ノグチとモエレ沼公園』2013、学芸出版社

⑤ ガラスのピラミッドは高さ32mのピラミッド型でガラスで覆われたアトリウムと高さ20mからなる附属施設(床面積1,450㎡からなる大きな空間)。「雪冷房システム」は冬に積もった雪が夏にとける冷水を冷房に生かす「熱交換冷水循環方式」で、そのほか石貼り床下の床吸熱、外気冷房、冬には太陽熱を利用した床暖房などがなされている。

2年前