1995年 東アジアとのデザイン交流 日本がデザインで国際貢献しようとした時代

(二〇世紀のデザインあれこれ 116)

 1995年1月17日の早朝、突然大きな揺れで飛び起きたが一瞬立つこともできず、何が起こったのか、想像もできなかった。
 翌日からのテレビ報道には目を疑うばかりで、高速道路は横倒しになり神戸の街は終戦直後の焼け跡同然。後日「阪神・淡路大 震災」と名付けられ、翌日から医療をはじめさまざまな救援活動がはじまった。デザインでは復興段階になって犠牲者への鎮魂の意を込め再生への夢と希望を託した光のデザイン「神戸ルミナリエ」が多くの人を魅了した。
 ここまではこの年のテーマとは無縁で、突然襲った災害の話である。
 テーマとした「東アジアとのデザイン交流」は震災の少し前から芽生え、いくつかの要素が重なり「機が熟す」という言葉がぴったりの年が1995年である。
 どうして「東アジアとのデザイン交流」がこの年のテーマになったのか。一言でいえば、「貿易摩擦からの隠れ蓑」といえば「言い過ぎだ」と言われるだろうか。70年代末、日本の輸出量の多さから貿易不均衡だと騒がれていた。そのための対策として国際貢献が俎上に上がり、大義名分や経過は省略するが「デザインで国際貢献を」となったのである。具体的には、国際的なデザインコンペティションの開催を中心に「国際デザイン・フェスティバル」を二年に一度開催することが提案され、その事務局として1981年に国際デザイン交流協会(JAPAN DESIGN FOUNDATION 、略してJDF)が大阪に設立されたことは既に書いた。が、もう一つ、アジアの国々を対象にデザイン交流活動を推進するために1993年(二年前の12月)に「アジア太平洋交流センター」が協会内に設置され、事業として「デザイン交流ミッションの派遣」や「交流会議」の開催などによりアジアの国々とネットワークを構築しデザインの支援に力を入れることになる①。
 ここで、どうして貿易摩擦とデザインが結びつくのかについて触れておこう。
 1945年の敗戦後から日本経済の復興は「モノづくり」による貿易(輸出)を第一として、先進国に学びながらのモノづくりに力を注いできた。しかし、輸出品の中にはOEM②によるモノもあり、時には「安もの」、「モノマネ」などと揶揄されたのである。同じころ、経営の神様・松下幸之助がアメリカ視察から帰国時に「これからはデザインやで」と言ったとされる逸話は有名だが、モノづくり特に輸出品のデザインには力を入れることとなる。日本政府(実行はJETROで正式名称は日本貿易振興会、やはり貿易が関係していた)は1955年から留学生を欧米へ送りだすなどしてデザイン振興を推し進める。そして電気製品や自動車など質の高い製品が大量に海外に出ていくことになり、貿易摩擦を生むのである。
 80年代になり、東アジアの国々も経済発展を進めようとして、貿易(輸出)のためのモノづくりが急がれた時期となる。そこでデザインが結びつき、デザイン先進国を自認した日本がアジア諸国のモノづくりにデザインでお手伝いしようとなるのである。それにしても、お節介なことを考えたものである。 
 アジア太平洋交流事業の一つの柱であった「アジア太平洋交流会議」(1994年から2001年まで開催)が前年の11月に日本貿易振興会との共同で開催され、私事だがそのコーディネーターを務めたこともあってこの年の7月にもう一つの事業である「デザイン交流ミッションの派遣」の一員として中国、香港、台湾、韓国を訪れた。

 中国は80年代から改革開放路線により経済発展のために「世界の工場」と言われるまでにモノづくりが盛んになっていた。が、その実態はOEMが中心でデザインはいらなかった。デザイン行政の役人や教育者にも会ってデザインの啓蒙に勤めたが、押し売りの感を強くした。かつての日本が海外のデザイナーを招いて学んだり、留学生を送ってデザイン振興に努めた時代が懐かしかった。その一方で、この頃の北京で注目されたデザインは「CI」③で、ブームとなっていた。モノのデザインはよそもので十分だが、CIは自国でデザインしなければならず、極めつけはこの年の10月に中華全国工商連合会の主催でCIの大会まで開催された。
 東アジアの中で台湾はモノづくりにデザインの必要性をいち早く感知し、JDFとも交流しながら「OEMからODMへ」②をキャッチフレーズにデザイン振興に力を入れていた。その象徴的な出来事としてこの年の9月に台北でICSID④の世界デザイン会議を開催した。この会議を主導したのはCETRA(産業貿易振興機関)のデザイン振興所長であったポール・チェンで「世の中の変化とデザイン」をテーマに会議や台北国際デザイン展など多彩な催しを行い台湾のデザインを一気に国際化させた。折からアジア諸国から日本へデザインを学ぶ留学生が増え始め、私のゼミに来ていた台湾からの留学生と一緒に世界デザイン会議にも参加した。関空という新しい窓口ができたこともあって関西から多くのデザイナーが参加した。
 冒頭、1995年を「東アジアとのデザイン交流の機が熟した」としたのは、JDFという組織やイベントだけではない。前年に空の窓口となる関西国際空港が大阪湾に開港した。ターミナルビルはパリのポンピドゥ・センターをデザインしたレンゾ・ピアノの設計による鉄骨の大空間で、関西から海外への窓口にふさわしいものとなった。空港へのアクセスにはJRが「はるか」、南海電鉄は「ラピート」という新たなデザインによる特急車両が投入され、東アジアもまた急に近くに感じられることとなる。
 さらに、テーマに関連する施設は空港だけではない。大阪湾に広くアジア太平洋との交流拠点として「アジア太平洋トレードセンター(通称ATC)」が建設・開業したことも大きかった。これは大阪湾の南港という新たに開発された地区に建設された複合施設で、大型展示場、アメニティ施設、インターナショナル・トレードマートとビジネスサポート施設やオフィスなどで構成され、まさにアジア太平洋に開かれたビジネスの拠点となった。さらに少し遅れてアウトレットモールまでができ、海に面したことから市民の憩いの場にもなった。
 ATCのデザイン関連では、1960年から大阪のデザインを牽引してきた大阪デザインセンターも移設され、大阪の新しいデザイン拠点となり、10月には国際デザイン・フェスティバルの展示会場として多くの人たちで賑わった。
 関西国際空港の設計がレンゾ・ピアノであったように建築分野では80年代から海外の建築家の活躍が目立ち始める一方、日本の建築家も海外で活躍を始める。その先頭を切ったのが磯崎新でロサンゼルス現代美術館(1986)に続きこの年スペインで「ア・ユルーニャ人間科学館」を設計・竣工させた。
 デザインは広く異国の文化を知り互いに交流しながら高めあうことが必要である。
 この時期、貿易問題を端緒としてできた国際デザイン交流協会の果たした役割は大きかったが、その役割も一段落したとして2009年に解散した。

① 国際デザイン交流協会の設立からアジア太平洋交流センターの設立と事業などについては(財)国際デザイン交流協会「Design Scene」No54に詳しい。

② OEM(Original Equipment Manufacturing)はメーカーが他社のブランドの製品を製造すること。もしくは受託企業のこと。この頃の中国は外国のブランドの製品をただ製造するだけというのが大部分であった。ODM(Original Design Manufacturing)はメーカーが製品の企画から製品開発、デザインまでをやり製造すること。

③ CI(Corporate Identity)は、企業理念を社員や社会に伝達する活動で、MI(マインド・アイデンティッティ)、BI(ビヘイビア・アイデンティティ)、VI(ビジュアル・アイデンティティ)からなるのだが、VIのなかでシンボルマークやロゴ、シンボルカラーなどの視覚的デザインとして理解されることが多いが、それだけではないことを付記しておく。

④ ICSID(the International Council of Societies of Industrial Design、(日本では「国際インダストリアルデザイン団体協議会」と言い、2017年にWDOと名称変更)は世界的なインダストリアルデザイン組織で1973年に日本で初めて京都で国際会議を開催。その後アジアでは名古屋に続き1995年に台湾で開催された。

2年前