(20世紀のデザインあれこれ110)
1989年1月7日、昭和天皇が崩御され激動の「昭和」という時代の幕が下りた。
更に竹下内閣が4月に倒れ、「漫画の帝王」手塚治虫、「経営の神様」松下幸之助、「昭和の歌姫」美空ひばりが相次いで亡くなるのだからこんな偶然もめったにないこと。「昭和」という時代が終わりを告げたのである。
日本だけではない。1月にアメリカでは大統領がジョージ・ブッシュに代わるが、なんといっても11月9日にあの東西ドイツの象徴であったベルリンの壁が崩壊したのだからまさに「大変動」の年であった。そしてまた、年末になって地中海のマルタ島で米ソの首脳が「冷戦」の終結宣言を行ったのには「やれやれ、一安心」という感を強くした。
ただ一つ、「大変動」どころか、なにも変わらなかった世界史に残る大事件が6月に中国で起こった通称「天安門事件」である。これだけは何ら変わることはなかった。
国の内外でこれだけのことが重なるのも珍しいが、この年の「デザイン」には何か変わったことがあったのだろうか。
「あった」というどころではない。日本では政府が主導してこの年の4月1日から翌年の3月31日までの一年を「デザインイヤー」としたのである。「デザインの年」とは驚くべきことで、これもバブルが引き起こした催事というべきかもしれない。
主催したのは「89デザインイヤーフォーラム」という、各界からのお偉い方々が集まった組織(後援には通商産業省、建設省、運輸省、外務省、文化庁)であったが、実務は財団法人日本産業デザイン振興会が行った。
デザインイヤーのキャッチフレーズが「時代をデザインする時代へ」とされたが、なんとも凄い謳い文句。「デザイン」を全く新しい概念で捉えなければならないフレーズで、どれだけ理解されたのかは疑問であった。すでにバブル景気が頂点に達しデザインの振興など声高に叫ばなくてもいい時代になっていたからである。それなのにこの年を「デザインイヤー」として運動を起こしたのはなぜなのか。
情報化時代の到来や社会のグローバル化など急変する日本社会のよりどころをデザインの持つ構想力などの「力」に求め、デザインを通して国民生活の質的向上、地域の活性化、産業の高度化、国際社会に貢献するなどの活動をデザインイヤーの目的としたのである。ただ、デザインの根底にあるべき人や自然に対する思いやりの「心(マインド)」の方は21世紀の社会に育まれただろうか。
そんな結果の話はおくとして、年間を通して全国で350以上ものさまざまな催事が行われたが、その中心となったのは名古屋市で行われた「世界デザイン博」と「世界デザイン会議」である。そして名古屋市が「デザイン都市宣言」までやってのけたのには驚いた。国が声をあげ地方自治体までが「デザイン」に燃えた稀有な一年であった。
世界デザイン博(7月15日〜11月26日)は「ひと・夢・デザイン—都市が奏でるシンフォニー」というわけのわからないテーマで名古屋市の白鳥会場をメインに四つの会場に分かれて展開された。「デザイン」という冠がつき、意味不明のテーマではパビリオンの展示計画をするのは苦労したことであろう。
デザイン会議は1972年の京都に続き、「ICSID’89名古屋」として10月18日に開催され46ヵ国と地域から参加者が集まったが、今一つ盛り上がりに欠けたのは、バブル景気が影響したのだろう。
1989年は、日本だけでなく海外でも「大変動」の年にふさわしく、奇遇にもデザインに特化した世界初のミュージアムが二つも誕生した。
これまでミュージアムといえば絵画や彫刻などの美術品が対象で、その中でニューヨーク近代美術館のようにデザイン部門を持つというのは特殊な部類であった。
しかしこの年、世界で初めてモダン・デザインに特化したミュージアムがイギリスのロンドンに誕生したのが「デザイン・ミュージアム・ロンドン」である。つくったのは日本でも「コンランショップ」で知られるテレンス・コンラン卿①で、ヴィクトリア・アルバート博物館で行っていたモダン・デザインの展示(ザ・ボイラーハウス・プロジェクト)をテムズ川沿いの河岸倉庫を改装して創設された。イギリスのモダン・デザインの常設展示から企画展など生きたミュージアムとして多彩に展開され、イギリスをはじめ世界のデザイン界に貢献した。(尚、2016年11月にはケンジントンに場所を移して新しく開館する)
もう一つはスイス・バーゼルの郊外のドイツ領に本社のあるスイスの家具会社・ヴィトラが自社の敷地内に創設した「ヴィトラ・デザイン・ミュージアム」である。今やヨーロッパを代表する家具会社の「ヴィトラ、Vitra」は1950年にウイリー・フェールバウムが創業するが、アメリカのイームズやネルソンのデザインにほれ込み1957年にハーマンミラー社のヨーロッパでの製造・販売権を得てデザイン主導の家具会社となる。
私がヴィトラという企業を知ったのは1976年の「オルガテック」。その会場でオリジナルのオフィス用の椅子(ヴィトラマット)と共にネルソンの「アクション・オフィス」が目に留まり知ることになった。爾後のヴィトラはウイリーの息子ロルフ・フェルバウム②が中心となり情報化時代のオフィス用の椅子として1984年にマリオ・ベリーニのデザインによる「フィグラ」と「ペルソナ」でオフィス家具業界で確固たる位置を築く。
ネルソンが生前に、「ロルフ・フェルバウムのデザインにかける情熱は大変なもの」と言っていたが、とうとうこの年フェルバウム親子がコレクションしていた椅子③を展示するミュージアムを建設する。ここまでならよくある話だが、ミュージアムの設計にフランク・ゲーリーを起用したのは特筆もの。前年MoMAでの「脱構築主義者の建築」展で一躍時の人となったゲーリーをその前に起用したのはロルフの慧眼で、時代の先端をめざす彼のデザインに対する思いの証である。ヴィトラ・デザイン・ミュージアムの設立は建築までを含めてこの時期(大変動)のデザインを語る事象といえる。
この二つのデザイン・ミュージアムは、国や地方自治体などの「社会的な力」によらず「個人の思いや力」によってできたもの。日本のデザインイヤーとの対比が見事に描き出された年である。21世紀へ残したものはどちらが大きかったか、問うまでもない。
最後に大変動の年にふさわしいデザインとしてパリの「ラ・ヴィレット公園」をあげておく。この公園はパリの19区にある大公園で1982年のコンペで設計手法などを含め話題となり建築家と造園家の間で激論の末、コンペ受けしそうなベルナール・チュミ④の案で決まり、この年竣工・開設された。
(「チュミ」の計画案の全貌は紙幅の都合で欄外の註を参照⑤)
計画の中心である赤いフォリーの造形には見るべきものはあるが、この案の売りであるそれらの関係性が見えないのは机上の計画案と広大な現場とのズレである。
① テレンス・コンラン(Sir Terence Conran,1931 〜2020)は80年代から日本でも「コンランショップ」を展開したイギリスの実業家で、デザイナーでもある。1989年にロンドンでデザイン・ミュジアムを設立。
② ロルフ・フェルバウム(Rolf Fehlbaum, 1941〜)は.創業者の息子でヴィトラ社をデザイン主導の企業へ築いた経営者。
③ これらを『100 Masterpieces from the Vitra Design Museum Collection』というタイトルで1996年に出版された。