1988年 「ニュー・バウハウス」誕生から50年 「アーバンライナー」と「脱構築主義者の建築展」

(20世紀のデザインあれこれ109)

 1988年3月16日、近畿日本鉄道の「アーバンライナー」という車両が大阪・難波から名古屋へ向けて走り出した。鉄道車両のデザインに風穴があいた日である。
 アーバンライナーのデザインチームの一員として二年余りの歳月を鉄道車両に関わった私だが、最近では「観光」という謳い文句により鉄道車両のデザインが花盛り、というより「なんでもあり」の状況で80年代中ごろのことを振り返ると隔世の感がある。
 この頃までの鉄道というのは乗客にとって選択の余地がない交通手段で、ある沿線に住めば車両の良し悪しなど言ってはおれず利用するしかなかった。鉄道会社も車両の良否などはそこそこでよいという感覚で、安全走行がなにより重要な目標となっていた。
 唯一出色の鉄道車両といえば1964年から走り出した新幹線の「0系」で、以来「100系」までの20年あまり世界初の超高速電車として日本を代表する鉄道車両であった。が、東京・大阪間という走行区間のためビジネス中心の機能性と走行スピードに加え安全性とそのシステムが重視され、車内はグレー系の色彩で味気なくデザイン不在であった。
 アーバンライナーの開発は鉄道車両に初めて競争原理が働いた結果で、新幹線の開通により近鉄の収益の大きな部分であった大阪・名古屋間の乗客数が陰り、それを回復することにあった。鉄道車両の評価といえば、当時から「テッチャン」と言われるマニアをはじめ一般の人達が評価する点は先頭形状であった。が、アーバンライナーのデザインで注力したことは、ただ一言「乗客の立場になる」という点で、新幹線のスピードにはかなわないのであれば乗客の立場にたった「居住性」をデザインの中心課題としたのである。
 いざデザインを始めてみると、技術者との感覚のズレは大きく、新たな提案する度に「前例はこうである」という答えが返ってきた。なにより実績が重視されていたのだ。
 豊かな室内空間をつくるために彼らの「前例主義」を変えてもらうことにエネルギーを費やしたが、座席から妻壁などの構成要素の質や色彩、照明の多様化(カーテン照明)など書きだせばきりがない。一つだけあげると、当時の車内の座席番号や案内のサイン類はアクリル板に彫刻機で文字を彫り込み、ビスで壁に止めていた。文字は汚いし厚みのあるアクリルの板の隅には埃がたまり、車内の「醜いもの」の一つであった。現在のようにシールがなかった時代で、シルクスクリーン印刷で直接壁などに印刷しようと提案したが、長い議論とテスト(乗客がひっかいて傷をつける等の危惧)を繰り返し、版下原稿を友人の事務所で徹夜で作成したことを思い出す。なにかを提案すれば、議論に始まり具体的に示していくことが必須であった。出入り台に路線図を付けることも提案したが、ニューヨークの地下鉄・路線図①を参考にアルミ板に印刷することとし、版下原稿の制作はもちろんのこと制作工場へも通った。全ては情熱でやらなければ実現できなかった。
 走り出して変わったことは、デザインが評価され、大阪・名古屋間の乗客数が新幹線開通以前近くに回復したこと。に加えて90年代以後の鉄道車両が内部空間重視へと移行していく嚆矢となる。もう一つ、「アーバン効果」ともいうべきものが芽生えたことで、社内をはじめ沿線の住民や商業施設を営む人々が「アーバン」に誇りをもっていろいろなことに取り組みはじめたことである。鉄道車両が「企業のアイデンティティ」だけではなく「リージョナル・アイデンティティ」となったのである。
 個人的な話だが、この年は文部省の在外研究員として23年ぶりのシカゴ生活を始めたが、イリノイ工科大学のキャンパス、なかでもミース教の本堂・クラウンホールは何も変わってはいなかった。街中ではシアーズ・タワー(当時世界一の高さ)が目立つ変化であったぐらい。
 だが、偶然にも歴史的な催事に出会った。モダン・デザインの生みの親ともいえる「バウハウス」がナチによって閉鎖に追い込まれ多くの教官がアメリカへ渡ったが、そのなかで1937年にシカゴの芸術産業協会の招請に応じたモホリ=ナジ・ラスローが開校したのが「ニュー・バウハウス」。その後「インスティチュート・オブ・デザイン」となり、さらにイリノイ工科大学の一学部となるのだが、この年50年目としていろいろな催しが行われた。シカゴ市内での展覧会などもあったが、クラウンホールを会場として開催されたオークションは多くの寄付物件で彩られた。その中で「さすが」と思わせる寄付があった。「ミースの傑作であるファンズワース邸で6人(3組のカップル)を招き、当時のオーナーがイギリスからお抱えのシェフを呼び寄せ料理を提供する」という日本では考えられない「粋な」のもので、さすがニュー・バウハウスの50周年だと感じ入った。

 夏にはニューヨークでかつての友人・知人らと再会する機会のなかで、60年代半ば憧れの的でもあったデーヴィッド・ローランド②に電話をすると、「Brasserieで朝飯を」との誘いから二、三度朝飯会を重ね「GF40/4」の後日談など聞きながら一本の椅子にかけた彼の情熱に感動する。ネルソン事務所でデスクを並べたランス・ワイマン宅を訪れ、メキシコ・オリンピックの公式ポスターにサインまでしてもらい持ち帰ったことなども思い出す。
 この一、二年のマンハッタンでは新しい建築などそれほど変わったことはなかった。唯一ダウンタウンでシーザー・ペリの設計になる「ワールド・ファイナンシャル・センター」③が竣工し、やたらボリュームを誇っていた。そんな建築をあざ笑うかのような展覧会「脱構築主義者の建築」展④がニューヨーク近代美術館で開催されたのだ。正直に言えば、建築における「Deconstructivist(脱構築主義者)」という意味を理解不能のままぶらりと会場に入ってみたのだが、この展覧会を企画したのがあのフィリップ・ジョンソンであることを知り、「またやってくれたか」と。
 内容はジョンソンが選んだ建築家のドローイングやモデルによる構想の展示であったが、フランク・ゲーリーだけは神戸の「フィッシュ・ダンス」(1986)というオブジェや70年代の段ボールの椅子をデザインしていたことから注目。年末の帰国時にサンタモニカへ立ち寄り彼の自邸を見てみようと図録だけは買った。展示の中でザッハ・ハリッドのドローイングも観たのだが、32年後の東京オリンピックの競技場が彼女の案になるなど想像すらできなかった。この展覧会では実現した建築は未だ少なかったが、脱構築主義建築はポスト・モダンの一つ方向として90年代から世界の建築の潮流にもなる。
 最後に、「ポストモダニズムの潮流は日本の量産による工業製品には及ばなかった」と書いたことがあったが、五年前に発売されていたら「日本のポスト・モダン」として騒がれたであろう製品がこの年ソニーから発売された。日本のモダン・デザインを主導してきたソニーが突如色とりどりの子供用玩具ともいえる電気製品「マイ・ファースト・ソニー」というグループを発売した。それだけではない。偶然なのだろうが三洋電機も「ROBO」シリーズという子供用製品を発表。「ポスト・モダン」を多少意識しながらもバブル景気ならではの家電製品であった。

② デーヴィッド・ローランドと「GF40/4」とレストラン「Brasserie」については拙著『20世紀の椅子たち』の252〜255頁参照。
① マッシモ・ヴィネリとニューヨークの地下鉄の路線図については「1986年」でも触れたが、『20世紀の椅子たち』の1987〜391頁参照。
③ マンハッタンの南端のウオーターフロントに花崗岩によるセットバックしながら頂部へと延びる4棟の高層ビル。2014年からは「ブルックフィールド・プレイス」という名前となる。設計者のシーザー・ペリ(Cesar Pelli,1954〜2019)はアルゼンチン生まれのアメリカの建築家。エーロ・サーリネン事務所に永く務めた後に独立。代表作にクアラルンプールのペドロナス・ツインタワー(1998)や日本でも大阪の国立国際美術館などがある。
④ かつてモダン・アーキテクチャー展を開催したフィリップ・ジョンソンが同じニューヨーク近代美術館で企画した展覧会で6月から8月30日にかけて開催された。取り上げられた建築家は、ピーター・アイゼンマン、フランク・ゲーリー、ザハ・ハディッド、レム・コールハウス、ダニエル・リべスキンド、バーナード・チュミ、コープ・ヒルメルブラウで、簡単に言えば、壊れそうな歪んだ形態を持つ「複雑に形態操作された建築」の展覧会。展示された建築家の中でもアイゼンマンやチュミはフランスの哲学者であるジャック・ダリダが唱えた「ディコンストラクション」(脱構築)の思想に関心を寄せたことから「ディコンストラクティヴィスト」と名付けられた。

3年前