(20世紀のデザインあれこれ108)
1987年は、政府の行政改革により国鉄の分割民 営化でJR各社が誕生したことに加えて、株価や不動 産価格が値上がりし一部には常軌を逸したような現 象があらわれる。 いまとなっては懐かしい「バブル景気」の始まりで ある。 バブル景気についてはその功罪など多くが語られ てきたが、これまでなかなか進展しなかった環境がデ ザインの対象となりだしたのだ。欧米に比べ比較にな らないほど遅れていたというか、無頓着であった日本 のオフィスがようやく動き出したのである。 情報化時代の到来がささやかれだした80年代に なって、デザイナーや家具メーカーなどが個別に声を あげても日本のオフィスは一向に進展しなかった。 というのも、高度成長時代から日本の経営者はオ フィスを単に事務処理の場と捉え環境の良否など業 績に影響がないとし、一方当時のオフィスワーカーも 環境に対して意見をいうような感覚がなかったからで ある。オフィス家具は多くの企業で戦後に進駐軍か持ち込んだグレーのスティールデスクにビニールレザー張りの回転椅子と相場が決まっていた。
情報化時代が到来しオフィスが企業の知的生産の場であるとされだしたこの年、バブル景気と重なっ てオフィス家具メーカーなどが中心となり「ニューオ フィス推進協会(NOPA)」が設立された。その活動 は、新しいワークスタイルやオフィスの在り方の研究を 通して専門家の育成や好ましいオフィスを顕彰する などの啓蒙活動であった。が、経済産業省とも連携し「ニューオフィス」という謳い文句によって「変わらねば ならない」というムードをつくり出したことが大きく、日本 のオフィスが動き始める原動力となった。 オフィス環境を左右する大きな要素は家具である。 そのデザインは60年代からのアメリカで進化し、1976 年からはヨーロッパのなかでもドイツ企業の開発力が 群を抜いていた。二年に一度ケルンで開催される「オルガテック」という見本市では目を瞠るような展開を見せていて「ヴィトラ」や「ウイルクハーン」といった企業 のデザインが注目された2。 だが、オフィスの在り方を左右するのは、関連する 製品のレベルやデザインがいくら向上してもだめで、 自社のオフィスがいかにあるべきかを考え計画に移す経営者の姿勢である。この点に関して今まで見たどんなかっこいいオフィスよりも感動したのがデンマー
デンマーク外務省の案内で訪れたゴリ社は木材の 防腐剤などの化学製品をつくる企業。社屋に入るなり 驚いたのは、悪臭が発生するであろう製造現場(工 場)とオフィスが巨大な木造の建物の中で一体となっ ていたことである。社長室はなく、社員と同じスペース で執務し家具は当時デンマークで開発され情報化に 対応した素晴らしいデザインのシステム家具により「オフィス・ランドスケープ」の考え方が実践されていた。 製造現場の異臭もなく食堂までもその一角にあった。さらに製造のための設備であるタンクや機器類を繋 ぐパイプなども彩色されアート作品に取り囲まれたよう な環境。社長の「製造現場もオフィスもわが社では同 じ環境で一体として働いてもらい、働く環境の良化は 企業の業績に寄与する」という話を聞き「これぞオ フィス」と感じ入ったのが今でも忘れられない。 この頃の日本で、オフィスの他にもう一つデザインを 生かしだした環境に公共空間があった。広場や公園に街路などがデザインの対象となりだし、そのなかても街中の「サイン」が見直された。その代表的なものとしてGK設計によってデザインされた大阪市の街路サインがあった。
1967年に万博協会の職員として大阪万博の会場 内サイン計画の予算獲得に奔走したときから20年が 経っていた。万博会場のサインという日本で初めての 課題に共に向き合ってもらったGKグループ3が大阪 のサインを手がけたことを見て懐かしかった。 翻って、大阪万博とほぼ同時期のニューヨークで は地下鉄の路線図とサインなどの凄いグラフィック・マ ニュアルがマッシモ・ヴィネリ4によってデザインされて いた。私が翌年(1988)に走り出す近鉄の車両「アー バンライナー」のデザインに苦闘していたこの年、路 線図のデザインで大いに参考にさせてもらった。ヴィ ネリの仕事はロゴマークをはじめ「ヘルヴェテイカ」と いう字体を多用したグラフィックが中心だが他にも家 具やインテリアなど幅広く、この年「ハンカチーフ」と名 付けた椅子をノール社でデザインしている。 80年代中ごろのニューヨークのデザイン事情5につ いてはあまりに多様でとても書ききれないが、その一つ にインターナショナルデザインセンター(IDCNY)が誕 生 し た こ と を あ げ て お き た い 。「 世 界 の 中 心 都 市 ・ ニューヨークにシカゴのマーチャンダイズマートのようなデザインセンターを!」というプロジェクトがロングアイ ランド地区の再開発と相まって進められた。その内容 については紙幅もないが、このビジュアルデザインも ヴィネリがデザインしていた。ロングアイランドはマン ハッタンの目と鼻の先だが車を持たない人間には不 便な場所。マンハッタンからは三番街と56丁目の角か らの専用のシャトルバスで行ったのだが、その車体に 描かれたロゴも鮮やかで印象深く、施設のデザインコ ンセプトが徹底されていた。
実は、IDCNYはこの地区にあった古い工場をリ ニューアルした建物が中心になっていたのだが、この 時期世界の都市施設が「再生(リニューアル)」という テーマで賑わっていた。パリのオルセー美術館はその 最たる例で、過去の歴史の中で築き上げたものを見 直し、「再生」を対象としたデザインもこの時期の「ポ スト・モダン」の一環である。 この時期のマンハッタンで商業施設として再生され た も の の 代 表 格 に「 サ ウ ス・ストリ ート・シ ー ポ ート 」 (1985)6がある。19世紀の中盤に栄えた港の文化的・ 歴史的遺産を見直しリニューアルするという点では 一般的なウオーターフロント開発であるが、少しばかり 異なるのはウオール街というビジネス地区が近くに あったことからニューヨーカーにとってのアフター・シッ クスに対応することが求められた。五つのブロックから なる複合商業施設として単に観光目的だけではなく、 都市施設としてのイベント企画やそのためのデザイン にも配慮された。 他にも19世紀後半の邸宅を再生した「ヘルムス リー・パレス」(高層のパレスホテル建設時に保存され た部分)のバーは、日本ではとても出会わない天井高 と厳かな雰囲気のなかスコッチの水割りが5ドルで楽しめたのもリニューアルならではの空間であった。 またこの時期の商業施設としてディスコという業態 が活況で、劇場を改造した「パラディウム」のハイテク デザインや鉄道のトンネルを生かしてリニューアルした
「トンネル」が話題を集め、バブル景気に沸く日本の ディスコブームにも影響を与えた。 日本でも京都の祇園・新橋の町家をリニューアルし た商業施設が注目を集めたが、古いものを取り壊す の で は な く、「再生」のデザインによって文化のアイデンティティを再確認するという時代でもあった。
① もう一つ加えておきたいことは、当時「ファシリティマネジメント」という概念が生まれたことも経営者を動かす要因となった。ファシリティマネジメントの定義についてはいろいろあるが、日本ファシリティマネジメント協会の定義によると「企業・団体等が組織活動のために、施設とその環境を総合的に企画、管理、活用する経営活動」とされるが、オフィスが企業経営の重要な資源であるとされた。国際的にはインターナショナル・ファシリティマネジメント協会(IFMA)が1980年に創設されている。
① 拙著『20世紀の椅子たち』の372〜375頁参照。
⑥ サウス・ストリート・シーポートはマンハッタンの地図でいえば下の方のフルトン通りとイーストリバーに面するあたりにあり、19世紀中盤から港には多くの船で賑わい商業で栄えたニューヨークの歴史的地区。しかし帆船に代わり蒸気船になると港の機能がハドソン川の方へ移り繁栄の幕を下ろす。1960年代になりウオール街の新たな建築の建設に伴い歴史的建築物の保存の動きが起こり、現在のサウス・ストリート・シーポートとなる。次の5つのブロックから構成されている。
・ミュージアム・ブロック
・フルトン・マーケット
・ピア17
・シェルメーホーン・ロウ
・シーポート・プラザ
③ 1953年に栄久庵憲司らによって創設された日本を代表する工業デザイン事務所。万博開催当時の名称はGKインダストリアルデザイン研究所であったが、地域やデザイン領域によって組織が成長・分割されたが統合した名称としてGKグループとなる。大阪のサインは「GK設計」で行われた。
④マッシモ・ヴィネッリ(Massimo Vignelli,1931〜2014)はイタリアで生まれ、ミラノ工科大学で建築を学び1966年にアメリカに渡りグラフィックからインテリアなど幅広くデザイン活動を行った。詳しくは拙著『20世紀の椅子たち』の388〜391頁参照。尚、文中のグラフィック・マニュアルとはNew York City Transit Authority『Graphics Standards Manual』
左のページの図は、アルファベットの字間を定めた部分。
⑤ この年の10月5日に香港から発した「ブラックマンデー」といわれた株価の暴落はニューヨークを直撃したが、この時までのアメリカではドル安やレーガノミックスという政策により経済が比較的好調で飲食店舗を含め商業施設のデザインに新たな胎動が多くみられた。