(20世紀のデザインあれこれ107)
1986年4月28日、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所が爆発した。事故は大変なことになっていたようだが、当時のソ連という国の事情から発表に時間を要したことやその後の経過など不明なことが多かった。ソ連だけではない。日本でも都合の悪いことは公表しないというのはよくあることである。
この年、日本では政府の行政改革に加え景気にバブル化の兆候が見え始めるとさまざまな試みによる新たなデザインが現れた。
その中の一つに、写真を撮る道具(カメラ)にこれまでの概念をひっくり返した製品(デザイン)が生まれ、日本人のカメラに対する価値観を変えることになる。
戦後の貧しい時代から給料の何倍もするカメラを買う日本人の価値観に支えられ、日本のカメラはアメリカ市場で高評価を得て輸出品の先頭を走ってきた。そんなカメラに、いや写真を撮る道具といったほうが適切かもしれないが、この年大変革が起こったのだ。
富士フィルムが売り出した「写ルンです」というフィルムのパッケージにレンズが付いた写真が撮れる道具である。今ではスマホでスナップ写真を撮る時代だから若者は写真を撮るのにフィルムを使うことなど「なんのことか」と思うだろうが、当時は写真を撮るのにフィルムは必需品であった。そのパッケージにレンズがつき、そのまま写真が撮れるというのだから世間は仰天した。これには撮影条件に左右されることの少ないフィルムの開発やプラスティックの成型技術の進化があったとされるが、フィルムメーカーならではの発想である。また「写ルンです」というネーミングも特異でユーザーをひき付け、販売面では自販機まで登場したのだからまさに写真を撮る道具の革命であった。
発売当初「またディスポーザブル(使い捨て)製品か」と思ったが、1990年から製品本体のリサイクル体制を確立したことで「画期的商品」になったといってよいだろう。
その一方で、奇しくもこの年「写ルンです」の価格の100倍もするカメラの超高級機が登場した。これこそが日本人の価値観にフィットするカメラの王道で、キャノンがドイツのデザイナー・ルイジ・コラーニ①と共にデザインした一眼レフの「T90」である。
コラーニは「自然界には直線がない」と言い放ち、「バイオデザイン」という造語まで生みだしたユニークなデザイナーで、大胆な流線形によるデザインで世間を騒がせていた。(この頃、日本ではキャノン以外にコラーニのデザインを採用する企業が数社あった)
「T90」のデザイン開発では、コラーニにデザインを全て任せるのではなく、キャノンのデザインチームとお互いに提案とディスカッションを重ねながら行われたという。
ただ、この頃になってキャノンだけではなく、日本光学までも「ニコンF3」(1980)のデザインをジョルジェット・ジウジアーロに依頼していた。メカニズムが大きなウエイトを占めるカメラのデザインをどうして海外のデザイナーに頼るのか。カメラのデザインには無知で、1960年代初頭の未だ貧しかった時代に「ニコンF」がアメリカでプロのカメラマンが使う高級機としてデザインも含めて高い評価を得ていたことを知る人間にとっては不思議であった。発売されたこれらの製品を見てもそれほどの「ちがい」、いや「ありがたさ」を見つけることができなかったからである。この頃の日本の工業デザインのレベルは世界でも遜色ないレベルにあったはずで、企業としてデザイナーの知名度を販売面で生かそうとしたのか、外貨を使うためであったのかはわからなかった。
ここでタイトルの「二極化」についても触れておくと、「写ルンです」は「T90」との二極化の対極というよりはこの年現れた特異な「革新的商品」とするほうがいいかもしれない。というのも、日本人の消費行動に二極化の現象が現れるのは「バブル景気」を経過した後のことである。「写ルンです」の影響もあり90年代になって「コンパクトカメラ」という比較的低価格の小型カメラが多くのメーカーから軽快で多様なデザインで登場。それらはキャノンやニコンなどの一眼レフの高級機と「二極化」を形成した。
話は変わって、世界の建築界では「ポスト・モダン」や「ハイテクによる新機能主義」などと騒がしい最中、「写ルンです」に匹敵するような突飛な建築がウイーンに出現した。デザインしたのは画家のフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー②で、色粘土をべたべたくっつけたような「フンデルトヴァッサー・ハウス」という公共住宅である。
1986年の秋、ケルンの「オルガテック」からの帰路パリに立ち寄り友人と汽車の時間を気にしながら食事をし、ウイーンへの夜行列車に飛び乗った。特に目的はなかったのだが、ウイーンに留学していた知人が会いたいといってきたからである。早朝に着いたウイーンでは速足で行きかう人の姿を眺めながら彼が来るのを待ったのだが、会うなり「おもしろい建物ができたので見に行こう」と言う。それが「フンデルトヴァッサー・ハウス」であった。建物の前まで来て「こどもの粘土遊び」とも思える建築に、それも公共住宅だと知って「ウイーンも新たな観光名所をつくろうとした」ぐらいに考えたのだが、見て回るうちにいつの間にかひき込まれ、帰り際に分厚い彼の作品解説書を買っていた。
その後「フンデルトヴァッサー・ハウス」がオーストリアの文化遺産になったことを知るのだが、彼の奇怪な建築はウイーンだけではなく大阪にやってきたのである。
19世紀末、日本の「ジャポニズム」にも影響を受けながら常に新しいものを生み続ける街・ウイーン。そんなウイーンから一世紀の時を経て大阪・舞洲にやってきたのがフンデルトヴァッサーのデザインによるゴミ処理工場である。2001年に突如現れたときは二度目の驚きで、世間では税金の無駄遣いなどと揶揄されたが、こんな突飛な発想によって大阪らしくゴミ処理工場のイメージを変えたことだけは確かであった。
一方、この年竣工した世界の建築を見渡すと「フンデルトヴァッサー・ハウス」の対極にあるのがロンドンにできた「ロイズ・オブ・ロンドン」(ロンドンにある世界的な保険市場)であろう。設計したのは、あのパリのポンピドー・センター(1977)をレンゾ・ピアノと共にデザインしたリチャード・ロジャース③である。1978年の国際指名コンペで勝ち、やっとこの年竣工したハイテク建築の「ロイズ・オブ・ロンドン」は時計塔のある「ザ・ルーム」と呼ばれる全館吹き抜けの巨大なアトリウムを中心にオフィス空間が取り囲むという、テクノロジーをベースとしたダイナミックな空間を形成。「時代を表現した建築」である。
1986年は、日本で写真を撮る道具に革命が起こり、その対極として海外のデザイナーとの共同で価格が100倍もする超高級一眼レフのカメラが誕生する。こんな対比も極端であるが、世界の建築デザインを眺めてみると、同じようなことが見られた年である。
誰も書かないデザイン史の一面だが、「偶然だとしても、こんなこともあるのか」と、編年体でたどる不思議なおもしろさとデザインの多様性を知るのだが・・・・。
① ルイジ・コラーニ(Luigi Colani,1928 〜2019)はドイツの工業デザイナー。ベルリン芸術大学で絵画や彫刻を学んだ後、パリで空気力学を学んだことから独特の感性により流れるような造形で一世を風靡する。日本でもキャノンの他、NECの電話機など多い。2005年には「バック・イン・ジャパン展」を京都工芸繊維大学で開催された。
③ リチャード・ロジャース(Richard Rogers,1933〜)はイギリスの建築家。ロンドンのAAスクールで建築を学んだ後、米国のイエール大学・大学院へ留学。そこで知り合ったノーマン・フォスター(前年の香港上海銀行の設計者)と帰国後「チーム4」を結成するが、1971年にレンゾ・ピアノと共同でパリのポンピドー・センターを設計。現代のテクノロジーによるハイテク建築で知られる世界で活躍する建築家。
② フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(Fnedensreich Regentag Dunkelbunt Hundertwasser,1929〜2000)はオーストリアの画家であったが「植物と共生する住宅」などを提案するなか当時の市長から「自然と共生する公共住宅」の設計を依頼される。が、彼は建築家ではなかったため、フンデルトヴァッサー・ハウス」の実現までには難題や紆余曲折もあったが1986年に完成した。共用のテラスには多くの植栽がされた。尚、大阪のゴミ処理工場の他にも「キッズプラザ大阪」内「こどもの街」(1997)などがある。