(20世紀のデザインあれこれ106)
1985年の日本は、外圧によって「変革」を余儀なくされた年である。
アメリカの通貨であるドルに対して日本の円が安すぎると、アメリカから怒りを買ったのだ。9月25日、ニューヨークのプラザホテルに欧米の先進4カ国(アメリカ、フランス、西ドイツ、イギリス)に日本を含めた5カ国の蔵相と中央銀行の総裁が集まり協議の結果、日本は円高を容認。この通称「プラザ合意」により1ドル250円程度であった円がその後200円を大幅に割ることになるなど当時は考えられないことであった。「プラザ合意」後の日本はさまざまな変革を余儀なくされるなか、経済の低迷を恐れた政府が公共投資を拡大し、金融を緩和したことで「バブル経済」の引き金になる。
偶然にも同じ9月に日本のデザイン界にとって記録に残る展覧会が開催された。
京都国立近代美術館で「現代デザインの展望—ポストモダンの地平から」というタイトルの展覧会が9月11日に開幕し①、国内外48人のクリエーターの一般的に「ポスト・モダン」とされる約200点の作品が集められ、刺激的な情報となった。
建築においては、チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977)によって「ポスト・モダン」の概念がある程度明確になっていたが、「モノ」のデザインでは「ポスト・モダン」はなにをもってそういうのか、定かでなかった。そこで近代美術館がモノのデザインにおける「ポスト・モダン」を独自の概念によって集めたのがこの展覧会であった。展示された作品は70年代末から80年代初頭にイタリアで展開された家具などのアヴァンギャルド・デザインを中心に、その流れにあるものを日本や他の国からも集めたもので、これまでなんとなく「ポスト・モダン」とされたものとそれほどの変わりはなかった。展覧会開催の意義について、図録の中で館長が「ポスト・モダン」をあえて(ニューデザイン)とカッコ付きで追記しながら「単なる流行現象と理解され、情報の通過だけに終始しがちなこの動向に、歴史的必然性と現代文明への批評的意味を読み取ることの重要性である」としていた。当時の中曽根総理が数年前より「外国製品を買え」というお達しがあったにしても、日本でなければできない企画と内容であった。
ただ、少しばかり残念なことはタイミングで、「ポスト・モダン」の主流とされるソットサスが結成した「メンフィス」から既に4年も経っていた。加えて展示された作品に企業で製品化されたものはそれほど多くなく、一般の人間が使用できる「モノ」からは遠く離れた「アート」(美術品)になっていたことである。
建築の場合は施主が巨額の費用をかけて建設するので、その造形美学(デザイン)の如何を問わず機能を満たし永年にわたって「使用」に耐えねばならない。一方「モノ」の場合は電気製品などを含めると機能のレベルが多様で、デザイナーが彫刻作品のように自由にデザイン・制作できるのはメカニズムのない家具や日用品といったものに限られ、機能という点に関してはデザイナーの解釈でどうにでもなった。「ポスト・モダン」とされるモノの多くは海外ならともかく日本人の生活の中で「使用」という状況のイメージは浮かばなかった。今になってみれば、この時期の流行現象の証として美術館の収蔵対象である。
話を海外の建築に移すと、この年、皮肉にも一年前のアメリカで騒がれた「ポスト・モダン」とは縁もゆかりもない「ハイテク建築」が香港とシカゴに出現した。
香港では、イギリスのノーマン・フォスター②がぶっ立てた「香港上海銀行本店」で、世界中の話題をさらった建築である。フォスターがコンペを勝ち取りその構想を現したのが1979年だからジョンソンが「AT&Tビル」を構想したのとほぼ同時期。彼もまた他の建築家と同様に「モダン」を超克しようとしてハイテクによる「ニュー・ファンクショナリズム」とでもいうべき新たな方向を持ち込んだ。これには建築に関わる多くの「科学技術」の進展とそれを生かした先進的な美学があってのことである。
残念ながら竣工後の香港上海銀行を見ていないのでアトリウムに光を巧みに取り入れたとされる空間などについて書けないが、外観がほぼ出来上がった竣工一年前に現場事務所を訪れたことがある。「システム8000」というオフィスシステムをデザインしていたことからある商社の企てに乗ってオフィス家具の営業を手助けしたのだが、徒労に終わったことは言うまでもない。既にこの時イタリアのテクノ社で「ノモス」という建築にマッチしたデスク類が開発されていたのだ。「ノモス」を見てさすがフォスターだと感じ入ったが、システムとして情報化時代に対応できるのだろうか、という疑問も持った。
もう一つのビルとは、この年シカゴにできた「イリノイセンター」という州政府のビルである。なんとフィリップ・ジョンソンの「AT&Tビル」で騒がしかったアメリカで、香港上海銀行と同類のハイテク建築であったことは奇遇としか言いようがない。デザインしたのはこの年以後アメリカで多くの建築を手がけたヘルムート・ヤーン③である。
三年後の1988年。2回目のアメリカ生活をするまで知らなかったのだが、かつての級友が「ヤーンはお前がIITを去ったあとクラウンホールに来たよ」というのを聞き、彼もまたミースに憧れてドイツからやって来たのかと思ったが、20年の歳月を経てヤーンはアメリカのスター建築家になっていた。
それでもミースの影がつきまとうシカゴでミースを超える建築をつくるのはしんどいことだったと思うのだが、ヤーンは見事にやってのけた。大きな開口部から入った途端、「これが州政府の建物か」と驚かされた。なんと直径40メートル高さが17階分にもなる巨大なアトリウムが広がり、1階にはフードコートまである。その上青や赤に彩色された鉄骨で構成された空間には、ミースが生きていれば驚いてひっくり返ったことだろう。
ヤーンはイリノイセンターに続き、二年後にはオヘア空港のユナイテッド航空ターミナルビルを設計。その一環としてデザインしたシカゴ市内から空港へ入り込む地下鉄のホームに飛び交う多色の光のデザインには空港へ行く度にあっけにとられた。
1985年の日本では、「ポスト・モダン」が「アート」になるなかロゴマークの傑作も生まれている。これも変革の一つなのだが、電電公社が民営化によって解体され日本電信電話株式会社(NTT)が誕生。そのロゴマークは亀倉雄策によってデザインされ、現在も日々目にする日本の代表的なロゴマークとなっている。またこの年、茨城県のつくば市で国際科学技術博覧会(通称・科学万博)を「人間・居住・環境と科学技術」をテーマとして開催。当時の日本の科学技術が展開され、シンボルマークは田中一光のデザインが採用された。
それにしても、科学万博の構想が立案されたのは1978年であったという。そして科学技術を生かしたハイテク建築の「香港上海銀行」と、科学技術とはあまり関係ないポスト・モダンの「AT&Tビル」(竣工は前年だが)もまた70年代末に構想され、いずれもがこの年になって実を結ぶという不思議な縁にも思い入った。
① 展覧会は京都展(9月11日〜10月20日)の後、東京国立近代美術館でも12月7日から1986年1月19日まで開催された。
② ノーマン・フォスター(Noman Foster,1935 〜)はイギリスの建築家でマンチェスター大学で学んだ後、アメリカのイエール大学で建築を学ぶ。帰国後はイェール大学では同じイギリスから来ていたリチャード・ロジャースともチームを結成するが1967年に自らの事務所をつくり活動する。この年の香港上海銀行が出世作となり、世界中で21世紀まで活躍。受賞もブリッカー賞や高松宮殿下記念世界文化賞など多数。
③ ヘルムート・ヤーン(Helmut Jahn,1940〜)はドイツのミューヘン工科大学で建築学んだ後、1966年にアメリカへ渡りイリノイ工科大学で建築を学ぶ。1967年からC.F.マーフィ事務所で勤務した後マーフィーと共同でイリノイセンター(1985)を契機としてアメリカ中で数多くの建築を手掛けた。