(20世紀のデザインあれこれ104)
1983年は、なにかと騒がしかった年である。
世間を騒がせた筆頭はNHKの朝の連続テレビ小説『おしん』で、ピーク時の視聴率が62.9%にまでなったというからただ事ではなかった。また遊園地の概念を変えた「東京ディズニーランド」の開園は豊かになりはじめた日本を象徴し、世間を騒がせた。
海外に目を移すと、3月にイラクがイラン油田を攻撃し大量の石油が海に流失。石油文明下での環境問題がクローズアップされた年でもある。さらにテレビの視聴率という点では、アメリカで11月にABCテレビが放映した核戦争の恐怖をテーマとした「ザ・デイ・アフター」が52.2%にまでなったという。日米で記録的な視聴率をとったテレビ番組が同じ年に存在したことはなんとも奇異であるが、その内容の違いは両国の事情をあらわしていた。豊かになった日本では貧しかった時代を知る人たちへのノスタルジーを喚起したのに対して、アメリカでは迫りくる核戦争という現実を呼び覚ましたのである。
デザインでは、すっかり忘れ去られてしまったが大騒ぎしたイベントがあった。
日本のデザイン史上最大のイベントといってもいい「第一回国際デザインフェスティバル」①が1983年10月7日に大阪で開幕。開幕式典には皇太子殿下と同妃殿下(現在の上皇ご夫妻)もご臨席になり、今はなき千里の万博ホール(1970年の大阪万博の時に建設、2004年に解体)で開催された。さらに展示などはこの年竣工したばかりの大阪城ホール②で行われたのだから文字通りデザイン史上かつてない「お祭り」であった。
このお祭りは、貿易摩擦を少しでも緩和しようとする政府が「デザインで国際貢献」を趣旨として1981年に設立した国際デザイン交流協会(2009年に解散)が二年間の準備期間を経て挙行したイベントで、その基幹事業は「国際デザイン・コンペティション」「国際デザイン・アオード」「国際デザイン展」の三つで構成されていた。
それらのなかで最も注目を集めたのが「国際デザイン・コンペティション」で、テーマは日本らしいが、わかりにくい漢字一文字の「集」(Shu)というのはえらい方々が知恵を絞ったもの。下世話な話になるが、注目を集めたのはグランプリの賞金が当時のレートで日本円にして約1,000万円という世界でも類を見ない高額③だったことである。賞金の大きさも手伝ってか、53か国から1,367点という数の応募があり、グランプリに輝いたのは、私がよく知るイリノイ工科大学のチャールズ・L・オーウェン教授と学生たちの「未来の家」と題するプロジェクトであったのには、正直驚いた。受賞作「未来の家」はチャック(オーウェン教授の通称)が専門とするシステム・デザインによる「しかけ」が中心であったために造形的にはわかりにくかった。後日談だが、5年後のシカゴでこの時のコンペが話題になり、チャックが「あのコンペの賞金は大きかった」と述懐していた。尚、このコンペは以後隔年開催されたが、役目が終わったとして第10回(2001年)で終了した。
国際コンペと抱き合わせてもう一つの顕彰事業「国際デザイン・アオード」は、デザインを通して産業や文化の振興に寄与し社会の発展に貢献した個人や団体の業績を顕彰するもので、デザインという領域では世界でもユニークな顕彰事業であった。その第一回の「名誉賞」として、当時のイギリスのサッチャー首相が選ばれたのは多少の受けを狙ったものと思うが、「一国の首相にデザイン賞か」と世間を驚かせた。
「国際デザイン展」は10月22日から13日間大阪城ホールで開催された。展示内容はコンペの入賞作品やアオード受賞者の業績、協会企画展示として「デザインの昨日・今日・明日」と題したウイリアム・モリス以後の近代デザインの歩みを振り返りつつ現代から未来の方向を探るもの、関西在住のデザイナーが協力した「Tシャツ一万枚大集合」なる特別展示などもあり、13日間で入場者数266,600人は盛況であったといえる。
ところが、政府をはじめ大阪府・市に関西財界が協同し、当時の日本デザイン界のリーダー達が揃って旗を振った国家的プロジェクトにもかかわらず、新たなトレンドを伝えるメディア(デザイン誌)では全く報道されなかった。さらに版を重ねている教科書的な『日本デザイン史』(美術出版社刊)にもなんの記述もなく、デザイン史上とるに足らない扱いとされたのは理解不能である。
研究者ですらデザインを表層的な造形の結果だけを重要視するからである。
しかしイベントの内容はさておき、運営母体である国際デザイン交流協会が設立時に掲げた基本テーマ「生あるもののためのデザイン」(Design for Every Being)はこれまでに世界でも提唱されたことのない視点である。これこそ「ポスト・モダン」の時代にふさわしいデザインの存在意義ともいえる「デザインは地球上のすべての生命のために存在すべきである」という壮大なテーマだったのだが、少々わかりにくかったようだ。バブル経済に向かう日本にあって、デザインはビジネスのためにあるという傾向が蔓延していたなか、売れなければ成立しない商業誌(デザイン誌)が無視するのは仕方がないとしても、日本デザイン史にも記録がないというのは考えられないことである。
大阪での騒ぎをよそに、建築界でも騒がしかった。ポスト・モダンでなければデザインでないというような状況下「近代建築をどうとらえるか」というシンポジウムが、芦原義信、篠原一男に後述する磯崎新をパネラーに多くの建築家が参加して議論され、騒がしかった④。が、この年、赤坂プリンスホテルをシンプルなデザインで竣工させた丹下健三が「ポスト・モダニズムに出口はあるか」とポスト・モダンに疑問を投げかけたことも注目された。こうしたなか、このころ活躍していた二人の建築家の話題作が偶然にも東と西で竣工する。磯崎新の「つくばセンタービル」と安藤忠雄の「六甲の集合住宅」である。どちらもこれまでの「モダン」を超克したものだが、方向は違っていた。
「メンフィス」にも参加した磯崎の「つくばセンタービル」は茨城県つくば市の学園都市センター地区に市民ホール、ホテル、公民館などからなる複合施設として建設された筑波研究学園都市の中核で、磯崎の代表作。この建築が日本のポスト・モダンの代表とされた理由は、中央広場にローマのカンピドリオ広場を模すなどヒストリシズムという歴史的な諸要素を組み込みこんだことである。
一方の安藤忠雄は1976年に「住吉の長屋」を設計して注目され、80年代以後は海外でのプロジェクトも多い日本を代表する建築家である。「六甲の集合住宅」はそのきっかけとなったもので、六甲の急斜面に張り付くように計画され集合住宅の概念を変えたもの。その造形はポスト・モダンの特質の一つであるヒストリシズムなどとは全く無縁であったが、安藤特有の空間構成は単なるモダンを乗り越えた。
②「大阪築城400年祭り(大阪城博覧会)」開催に合わせてできた多目的ホール。1983年10月1日開館。構造は楕円形のドーム式で最大収容人数は16,000人。
③1,000万円は、当時の平均的サラリーマンの年収が330万程度であったから、3年分の年収ということになる。
① 『国際デザイン交流協会10年の歩み・Design for Every Being 』財団法人・国際デザイン交流協会、1992
④ 『新建築』1983,1月号