(20世紀のデザインあれこれ102)
海外のデザイナーに力を借りた日本が「デザインで国際貢献へ」というちょっとおかしな年
1981年4月、アメリカのスペースシャトル「コロンビア」が宇宙へ飛びたち、宇宙の実用化への一歩となったニュースは疾風となって世界中を駆け抜けた。
デザインでは、この年イタリアから二つの風が吹いてきた。その一つは「メンフィス」①というデザイン集団の叫び声が旋風となって日本だけではなく世界に向けて吹いた。
「メンフィス」とは、エットーレ・ソットサス②という20世紀の奇才が中心となって前年の12月に結成されたデザイン集団名で、1981年9月に開催されたミラノ・サローネで彼らのデザインが展示され「これぞポスト・モダニズム」として喧伝された。これらは既存のデザインをあざ笑うかのように色彩豊かでアヴァンギャルドな家具が中心であったが、「実用」というレベルでいえば使い物にならなかった。これにはミケーレ・デ・ルッキやアンドレア・ブランジらその後イタリアのデザイン界で活躍したデザイナーに加えアメリカからはマイケル・グレイヴスら海外からも参加し、日本からは磯崎新、倉俣史朗、梅田正徳が展覧会に出展した。
「メンフィス」という実質的にはソットサスの雄叫びがどうして旋風となって世界中に吹きわたったのか。数年前、チャールズ・ジェンクスが現した「ポスト・モダニズム」という言語とその概念にふさわしいものが建築以外では捉えにくく、世界中のデザイン・ジャーナリズムが「ポスト・モダニズム」に相応しい実態を探していたからである。
この年の活動からソットサスをラディカルなデザインの旗手のように捉えるかもしれないが、それだけではない。偶然だが、この時彼のモダン・デザインも世界を巡回していたのである。彼は60年代から陶芸のオブジェや装飾品などでアヴァンギャルドな造形活動とともに工業製品やオフィス家具をとおしてモダン・デザインを実践した見事な二刀流であった。それらは「イタリアン・モダン」を代表する企業・オリベッティ社の歴史とも重なり、1978年にアメリカのカリフォルニア大学からスタートしたオリベッティ社の世界一周巡回展(その最後として、日本では1982年の2月に京都工芸繊維大学で開催された)のカタログ『DESIGN PROCESS OLIVETTI 1908−1978 』③を見ると、64年から78年にかけてマリオ・ベリーニとともにオリベッティ社のプロダクト・アイデンティティを形成したデザインが一望できる。もちろん1969年にデザインした赤いタイプライターも世界を回っていた。
こんなソットサスも、第二次世界大戦直後は日本と同様の敗戦国としてアメリカ文化の影響もうけ、1955年にはニューヨークのジョージ・ネルソン事務所で仕事をしたことも創作の幅を広げたのかもしれない。彼のエピソードなどをネルソンから聞きそびれてしまったが、彼は私より10年前に同じ事務所で仕事をしていた先輩でもあった。
この年のもう一つの風とは、イタリアから日本にだけに吹いたもので、いすゞが売り出した乗用車「ピアッツァ」である。乗用車のデザインで世界のスターであったジョルジェット・ジウジアーロ④がデザインしたことから耳目を集めたが、それは「メンフィス」のものとは異なり洗練されたモダン・デザインであった。
ジウジアーロはイタリア・トリノのデザイン組織「イタルデザイン」の社長でもあったが、工業デザイナーとして特に乗用車のデザインで名を馳せていた。(日本車ではマツダのルーチェやトヨタのスターレットなど数社にまたがって仕事をしたことなど現在では考えられないが)ファション以外でデザイナーの名前がブランドとなりセールスプローモーションに一役買った最初ではなかったか。
それにしても、前年の12月、日本の自動車生産台数が1100万台を突破し日本国内の需要より輸出の方がうわまわったという時期である。アメリカを抜いて世界一になったにもかかわらず、デザインを海外に頼らなければならなかったのはどうしてなのだろうか。いすゞの場合は1968年の「117クーペ」以来ジウジアーロにデザインを依頼していたからその流れであったが、自動車だけではなかった。日本の工業製品の中で国際的に技術とともにブランド力も兼ね備えていたカメラのニコン(当時の社名は日本光学工業で1988年に改称)までがジウジアーロの力を借りたのである。1959年に誕生した世界の名機「ニコンF」から数えて三代目で、電子制御による「ニコンF3」のデザインをジウジアーロに依頼した。市場に出た「ニコンF3」(冒頭のスペースシャトル「コロンビア」にも乗ったという)を見て「どこがジウジアーロなのか?」と思ったものだが、さらにこれだけではなかった。二年後には時計のセイコーまでもがジウジアーロのデザインによる製品を発売した。海外ブランドに弱い日本人の性格をあらわしていたが、この時期の日本の経営者にとってジウジアーロは頼りになる切り札的存在であったのだ。資金もあり、その上「なにかしら情報の力」を付け加えたいという飽くなき経営者側の欲の皮の突っ張りの表れであった。当時のいすゞのデザイン部長であった井ノ口誼から聞いたジュージアーロとの関係話からは企業人として仕方のない選択であったようだ。
さすがに家具業界が「メンフィス」などのデザインに飛びつかなかったのは「飛びつく力」がなかったというのが本当のところであったが、これでは「商売」にならないと考えたからである。飛びついたのは時流に乗ろうとした若いデザイナー達で、その後の日本のデザイン誌にメンフィスの「まがい物」が数多く現れたが、一瞬にして消えた。
こんな状況下、この年のタイトルにも書いた「おかしなこと」にも触れておこう。
このころ、ジウジアーロだけでなくマリオ・ベリーニ、ルイジ・コラーニやドイツのポルシェ・デザインなど海外のデザイナーの力を借りることが多かった我が国が、何を思ったのか、デザインで国際貢献しようとして「国際デザイン交流協会」(2009年3月に解散)という組織を政府の肝いりで大阪に創設した。設立の趣旨は「デザインの国際交流を通して世界の産業と文化の発展に寄与する」という大それたものであった。が、本音は自動車を中心に輸出の多さが経済摩擦を引き起こし、その緩和策のひとつとして「デザインで国際貢献」というのが浮上したのだ。その事業のひとつとして「国際デザインコンペティション」を開催したが、グランプリの賞金が8万ドル(当時のレートで約1000万円)という世界でも桁外れの高額であったことから注目を集め、一時的にしろ「貿易摩擦の風よけ」の一助になったのかもしれない。また、アジア諸国へのデザイン振興支援事業もあったが、日本の「おせっかい」の感は否めなかった。私もその事業に協力し90年代になって中国でデザイン振興を訴え支援する旅に出たが、中国では「ありがた迷惑」という感を強くした。
その後は、デザインなどとは「異なる力」で今やアメリカと覇権を争う大国となった中国。デザインはそれぞれの国で芽生える文化であり、やたらその振興を経済発展と結びつけて他国が推奨するものではなかった。
①「メンフィス」はエットーレ・ソットサスが中心となって結成されたデザイン活動の集団で1988年まで続けられた。「メンフィス」という名前になったのはグループ結成の日の夜ボブ・ディランの『メンフィス・ブルース・アゲイン』が流れていたからという話と実際ボブ・ディランに会っていたという話もある。
② エットーレ・ソットサス(Ettore Sottsass,1917 〜2007 )はイタリアのトリノ工科大学・建築科を卒業。多方面で活躍した20世紀後半のイタリアを代表するデザイナーである。ソットサスについては『エットーレ・ソットサス』(ジャン・バーニー著、高島平吾訳、鹿島出版会、1994)に詳しい。
③ 日本語訳は1981年の11月に日本オリベッティ社から日本展に合わせて出版された。日本での展覧会はイタリア大使まで来られ1982年の2月1日から14日まで京都工芸繊維大学で開催された。この展覧会は製品から建築、ビジュアルデザインなどオリベッティ社の全てを含めた「イタリアン・モダン」の総集版といってもよいものである。
④ ジョルジェット・ジウジアーロ(Giorgetto Giugiaro, 1938 〜)はイタリアを代表する工業デザイナーで、若い時期は乗用車のデザインで一世を風靡する。1981年以後は自らの会社を立ち上げ世界中の企業のデザインを行う。日本の家具業界では「オカムラ」の事務用椅子『コンテッサ』、『バロン』があるほか、三菱重工のエアコンやブリジストンの自転車などもデザインしている。