(20世紀のデザインあれこれ101)
「80年代」という幕が上がったこの年、アルビン・ト フラーが『第三の波』を著わし一気に情報化が進み 始める。情報という無形のものが価値を生む時代に なったのである。
70年代の終止符としてつけ加えておきたいことは、 年末のジョン・レノンの死で、驚くと同時に衝撃を受 けた。というのも、銃殺された現場の「ダコタハウス」 はニューヨーク・セントラルパークの西側にあって、か つて私が住んでいたアパートのすぐ近くでその前を よく歩いていたからである。彼は「ビートルズ」のリー ダーとして60年代半ばから70年代世界の音楽文化 に変革をもたらしたヒーローで、彼の死は「ビートル ズ」音楽の終焉を告げていた。もう一人、日本では独 自の思想で建築をつくりだした孤高の建築家白井 晟一がこの年親和銀行の設計で芸術院賞を受賞 する一方、松濤美術館を設計。哲学を学び50年代 から白井固有の建築デザインを続けてきた巨人が この年で事実上幕を下ろしたこともあげておこう。亡 くなったのは3年後のことであったが。
さて、新たな時代として冒頭にダコタハウスを話題 にしたので、この年ニューヨークの地下鉄の駅で起 こったコトをとりあげ情報化時代の新たなコトとしたい。
70年代、ニューヨークの地下鉄車両の外から中 まで見るに堪えない落書きがよくもこれだけと思える ほど描かれていた。地下鉄だけではない。街中の壁 にも落書きがあふれていた。(念のために80年代中 ごろから撲滅運動が起こり80年代末にはほぼ消え たが)
バンクシーの落書きに巨額の値が付いたという報 道がされたのはつい先ごろのこと。今や価値基準が どうなってしまったのか理解できないが、この年一人 の青年がニューヨークの地下鉄の駅のあいていた 広告版に黒い紙を貼りチョークで描いた絵が話題 となる。青年の名はキース・へリング①で、彼が描き始 めた落書きは「サブウエイ・ドローイング」と呼ばれ、 落書きが「アート」として認知された端緒となる。
その後、彼の描くイラストはコミカルで楽しさに満 ちアーティストとして展覧会など多方面で活躍する が、不幸にも1990年に31歳の若さで世を去った。し かし30年も前に亡くなった彼のイラストが今、日本の テレビコマーシャル(スズキのハスラー)になって流れ ているのを見ると彼の落書きもバンクシーと同様に 価値を生んだのである。さらに日本ではへリングの蒐 集家である中村和男(シミックグループ代表)によって2007年八ヶ岳に「中村キース・へリング美術館」という個人の美術館まで創設された。
落書き(英語ではグラフィティという)は洞窟に描 かれたものなど古代からあったことはよく知られてい るが、アメリカにおけるモダン・グラフィティは70年代 のヒップホップ文化によって始まったとされている。が、 そんなことはなく、既に60年代には社会に対する主 張や不満などから名前や記号らしきものをスプレー 塗料で描く落書きが街中の壁に見られた。昨今の日 本でも見られるようになったこれらの醜い落書きは 明らかに犯罪行為であり、なんとかならないものか。
その一方で、アメリカの街中の壁、それも大きな壁 を情報発信の場として落書きではなく意図した図像 によりデザインされた「壁絵」が登場するのもこのこ ろ。それらの中には、取るに足らない建物を中世の 石造の建物に偽装したものや窓の周りの壁を空の ブルーと白い雲で覆ったものなど、アメリカらしい ジョークに満ちた楽しいデザインもあった。これら街 中の「壁絵」についてジョージ・ネルソンが著書 『HOU TO SEE』の中で「City Wall」という項を設 けて論じている。彼は「壁絵」が数多く誕生したわけ を「つまらなくなった街の壁に対する不満」としなが らも、多額の費用が必要であることから不思議であ るともいう。それなりの意味があった壁絵として、彼の 著書の中に取り上げられていた巨大な壁一面に楽 譜が描かれた現場(ミネアポリスの街中にあったもので、画像を参照されたい)にたまたま遭遇したときは、 興奮して思わずシャッターを切った。これは看板の代 わりだったが、見事なものであった。デザインしたよう な壁絵の中には落書きや看板と紙一重のものもあっ たが、きっちりと足場を組みデザイン図に基づき描く 職人の姿に出くわしたこともある。(写真を参照して いただきたいが、右下の崩れかかった壁は描かれた ものである)これらは落書きでもアートでもないが、こ の時代のアメリカの街の風物として記憶に残る。
街中の壁が「情報発信の場(媒体)」となり落書き や壁絵が「アートへ」といえば言い過ぎかもしれない が、評価が変わるきっかけとなったのがキース・へリ ングの「サブウエイ・ドローイング」で、1980年のことで あった。へリングに続いてグラフィティからアートとし て認知された作家としてジャン=ミッシェル・バスキア をはじめヴィールス、レットナ、ステンシルを用いたブ レック・ル・ラットらもあげておこう。 最後に個人的な話になるが、情報化時代を迎え たこの年、企業の「オフィス空間」こそ情報の価値を 生む場であり、日本のオフィスを変えなければならな いと考え、私なりの答えとしてオフィスのシステム家 具「システム8000」②をデザインし発表にまでこぎつ けたが、ビジネスにはならなかった。
私がオフィス環境をデザインのテーマとしたきっか けは、1966年にネルソン事務所で「アクション・オフィ ス」③の次のバージョン(「ブルペン・オフィス」という名 のシステム家具)をチームで構想したときで、そのこ ろからいずれ日本流のオフィスシステムをデザインし てみたいと考えていた。
70年代の日本のオフィスといえば、グレーのス ティールデスクとビニールレザーの回転椅子が日本固有の集団主義によってレイアウトされ、オフィスは単 なる事務処理の場という考えが蔓延していた。経営 者もオフィスなどに金をかけるという考えはなかった。
そんな時期にたまたま「チトセ」というオフィス家具 をつくる企業と巡り合い、社長から任され開発に二 年近くをかけたのが「システム8000」。デスクには情 報化に備えて配線ダクトも内蔵したが、金型にかけ る費用の点などから主材を木製としたことが失敗で、 今から見ると不満足な点も多い。が、デザインはイン テリアデザイナー協会から協会賞(1981)として評 価され業界のモルモットにはなったが、ビジネスでは 失敗であった。
かつてハーマンミラーの「アクション・オフィス」がビ ジネス面では失敗であったように、その後欧米で現 れたデザイン面で注目されたデスクを中心としたシ ステム家具もことごとく定着しなかった。その要因は、 既存の家具が厳然と存在する企業のオフィスへ、 機器や椅子のように簡単に買い入れたり入れ替え たりすることの難しさである。デスクを中心としたオ フィス家具は、既存のモノと共生しながらの「ゆるや かな変革」が求められるアイテムであった。
日本におけるオフィス家具の変革は、1987年に 「ニューオフィス推進協議会」が設立され業界全体 が足並みをそろえて進むときまで待たねばならな かった。
①キース・へリング(Keith Haring,1958〜1990)はアメリカのストリートアートの先駆者で1990年に亡くなるからまさに1980年代に活躍した画家である。キースはHIV 感染者であったためにAIDS 撲滅運動などの社会貢献活動も行った。
② 詳細は『JAPAN INTERIOR DESIGN』
③ アメリカのハーマンミラー社が1964年に発表したオフィスのシステム家具で、ジョージ・ネルソンがデザイン。当時世界中が驚いた革新的なオフィスシステム家具。「1964年」のところで少し紹介してあるので参照されたい。