(20世紀のデザインあれこれ100)
新年早々あわや第3次世界戦争か、と思われたア メリカとイランの関係が現在に至った発端は、この年 イランで起こった通称「イラン革命」である。国王を追 い出し実権を握ったホメイニが石油生産を激減させ たことにより日本で第二次石油ショックが起こる。
いま起こっているコロナショックではマスクがなくな るように、石油ショックが起こると主婦がトイレットペー パーを買い占めに走るという現象は人間の「本性」 で、なにかしらの不安と自らの生活がなにより大事と いう心理の表れである。
一言つけ加えるなら、コロナウイルス問題は人間 が地球という「自然」との共生を忘れた結果である。 そしてオリンピックを延期に至らせたのは、一説には 3兆円ともいわれる巨費をついやす商業化と、マスコ ミなどの過度な騒ぎによりアスリートをメダル獲得だ けの目標へと駆り立てる変質したイベントへの警告 である。1964年の東京オリンピックに少しだけ関わっ た私は、翌年、メキシコで砂金をとるために日本から 移住した老人が「東京のようなオリンピックは貧しい メキシコではできないよ」といった言葉が記憶に残る。 が、そんなことはなく、1968年のメキシコは見事にオ リンピックをやってのけた。友人のランス・ワイマンが デザインしたロゴマークなどのデザインは歴史に残 る名作である。
話はそれたが、1973年とこの年に起こった石油 ショックによる主婦の行動は70年代の日本の状況を 具現していた。60年代の日本は国をあげて「経済成 長」という課題を掲げて走った結果、目標達成が現 実のものとなり、東京オリンピックから大阪万博へと 「世界の中の日本」を実感しながら国家が明確な テーマを持って歩んだ時代であった。
万博が終わると、国家としての明瞭な主題がなく なり日本人は国家に対する関心が薄れ、興味はもっ ぱら個人の生活環境へと移っていく。各人が自らの 姿勢で日常を生きる個人主義が芽生えた時代で あった。
1974年頃には個人の生涯を「ライフサイクル」と いう時間軸で眺めることも多くなり、生活の多様化、 個別化はモノの消費に対しても個人の趣向が中心 となる。モノはもとよりそれを展開する商業施設のデ ザインが大きく発展したのも70年代である。これらの 背景には何より経済的豊かさがあって、70年代最 後の1979年になってエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・ アズ・ナンバーワン』①を著わし日本の経済発展を評価する。一方、ヨーロッパからは「日本人はウサギ小 屋に住む労働中毒者の国」②と経済成長を皮肉ら れ、そのちぐはぐさを海外から指摘された。そんな環 境のなか若い人たちに「ミーニズム」(自己中心主 義)とでもいうべき傾向を生むのが1979年である。
この年、街中の多くの喫茶店では「インベーダー ゲーム」というゲーム機を操る「チューン、チューン」 という音が絶え間なく鳴り響いていた。爆発的には やったゲーム機であったが、機器を相手にゲームな どしたことのない人間にとっては迷惑な騒音でしか なかった。やっている若者は「他人のことなど我関 せず」と夢中になっていた。 ゲーム機などは一過性のものであったが、70年代 最後の年に時代を形象化した「真打」が登場した。 ヘッドホンステレオの代名詞までになった「ウォークマ ン」である。
ソニーが売り出したウォークマンは、これまでのカ セットレコーダーを改造し歩きながらヘッドホンで音 楽が聴ける画期的な製品で、1981年になって売り 出した2代目の「WM-2」がこの完成形である。携帯 する音響機器として小型で軽量化(280g)され、そ の技術とともにデザイン面でも日本はもとより欧米で も評価された。音楽を、それもステレオで歩きながら 聞ける機器に当時の若者は飛びつき、ヘッドホンを 付けて街を歩くことがファッションにまでなったのだ。
しかしそんなライフスタイルとは無縁な人間にとっ て、通勤電車の中でヘッドホンから「シャン、シャン」と いう音が漏れるのに辟易した。彼らはそんなことなど おかまいなしで「他人のことなど我関せず」と「個 人」の独自性を貫いた。
戦後の日本で炊飯器やテレビなどの家電が日本 人の生活様式を変えたように、モノが人間の生活や 性向に影響することはごく自然なことである。その後、 個人的に体験したことだが、ウォークマンと青春時 代を過ごした人たちの中に個人主義とは異なる 「ミーイズム」とでもいうべき自己中心主義的な性向 を見るのである。ミーイズムは70年代のアメリカで芽 生えたとされるが、日本で若い人の間に芽生えた 「自己中」は1979年に始まる。
この年もう一つ「パーソナル」という言葉にぴった りで日本ならではのモノが登場した。シャープが売り 出した名刺型電卓である。「カード型」ともいわれた が、厚さが1.6ミリであったからまさに名刺であった。 小学校時代にそろばんを習いに行った世代にとっ ては夢のような道具で、当時の液晶技術の結晶で あり、もちろんデザインもシンプルなものになっていた。 液晶開発競争は数年前からカシオなど他社も加わ り激化した結果、事務所内で共用していた電卓が 小型化、薄型化してビジネスマンの胸ポッケットに入 り、場所も他人も気にせず「個人」が使える道具に なったのである。「他人のことなど我関せず」と。
こんな製品が日本で生まれたのは単に科学技術 上の成果であったのかもしれないが、この年のテー マにぴったりの住宅、それも建築史に残る住宅がア メリカの西海岸にひっそり竣工していた。建築家フラ ンク・ゲーリー③の自邸で、脚光を浴びたのは9年後の 1988年にニューヨークのMoMAで開催された「脱 構築主義の建築」展のことである。この時以来「脱 構築主義」の旗手として21世紀に至るまで大活躍 するゲーリーのことについては別稿に譲るとして、こ の展覧会をニューヨークで見て彼の自邸のあるサン タモニカへ行こうと決めたのは1988年の12月。当時 日本でエアコンのコマーシャルであったと思うが、「サ ンタモニカの風」というキャッチコピーが流れていて、 その甘い響きに誘われたこともあった。
アメリカ西海岸のリゾート地ということで、行ってみ たが冬のサンタモニカは人影もまばらで夏の華やか さはなかった。住所を頼りにゲーリーの自邸を探した のだが、外観は改築された後なのか、あたりの景観 からそれほど突出したものでもなかった。しかしその 一部はつぶれかかった戦後の「バラック」と思えるも の。外観だけで住宅を評価するのは無意味だが、 他人がどのように感じようが自邸の設計で自らの主 張(脱構築主義)を貫くのは建築家として真っ当な 姿勢である。「他人の目など我関せず」と。付けくわ えておくと、ゲーリーはこの年ゲーリーらしい段ボー ルによる安楽椅子もデザインしている。
椅子といえば、この年ノルウエーのピーター・オプ スヴィックが「バランスチェア」④という座部を前傾さ せるというこれまでの発想にない椅子をデザインし た。発想は納得できるものであったが、普及するに は「他人の目など我関せず」とはいかなかった。
①著者のエズラ・ヴォーゲル(EzraFeivel Vogel, 1930〜)はアメリカの社会学者。1979年に日本で出版された著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の題名は1980年代の日本経済の黄金期を象徴する用語としても用いられた。
② この年EC がだした『対日経済戦略報告書』の中で日本人の住居が「RABBIT HUTCH(ウサギ小屋)」とされたことから一気に流行語となった。
④ 拙著『20世紀の椅子たち』の364〜367頁参照
③ フランク・ゲーリー(Frank OwenGehry, 1929〜)はカナダ出身でアメリカに本拠地を置く建築家。脱構築建築の旗手として世界中で大活躍するが、家具関係で有名なヴィトラ・デザイン・ミュージアム(1989)はよく知られる作品である。