(20世紀のデザインあれこれ99)
1978年5月20日、機動隊に守られながら成田国際 空港が開港した。1966年の計画開始以来「三里塚 闘争」などの激しい反対運動があり、12年もの歳月 をかけてやっと開港にこぎつけた。成田という新たな 海外への窓口ができて「国際化」という謳い文句が 物理的にも可能となったのだが、関西からの利用に は一日余分にかかり面倒であった。 この年日本で出版された書籍ではジョン・K .ガル ブレイスの『不確実性の時代』が世間を騒がせたが、 デザイン・建築関係で注目されたのはなんといっても チャールズ・ジンクスの『ポスト・モダニズムの建築言 語』①(1977年刊。日本版は竹山実訳で建築雑誌の 増刊号)である。今、手元にある少し色褪せた表紙 を見ると懐かしさが蘇る。
モダン・デザインの退屈さにそろそろ飽きはじめた 60年代末から多くの建築家が文化的な記号などを 用いて多元的な表現をするようになり、モノのデザイ ンでもイタリアの前衛的なグループ「アーキズーム」ら が新たな試みを始めていた。 これらの動向について、ジェンクスがその著書『ポ スト・モダニズムの建築言語』でモダン・デザインの機 能主義的な方向によって排除された装飾性、象徴 性、民族の土着的なものなどを見直し、混成的で 「ラディカルな折衷主義」によるデザインを「ポスト・モ ダニズム」とする枠組みを提示し、この年日本で「ポ スト・モダニズム」が顕在化した。
だが、その第一部「モダニズム建築の死」のなか でミース・ファン・デル・ローエをこきおろすくだりは、 ミース教の本堂(イリノイ工科大学のクラウンホール) で学んだ私にとって正直違和感があった。が、モダ ン・デザインの価値基準を見直し新たな建築の枠組 みを示したことは評価しよう。しかし、この年以後「ポ スト・モダニズム」に躍らされた建築家の安っぽいデ ザインがはたしてモダン・デザインより人々に感動を 呼び起こすことになっただろうか。さらに景観上で疑 問を抱くものがあったこともあげておきたい。
次に、表題に「59階の危機」などとすると、何のこ とかと思われるだろうが、これは前年にニューヨーク のマンハッタンにできた高層ビルに関して起こった事 件のことである。 これについては後述するとして、その前にジェンク スが著書の執筆中にミースやSOMなどのモダニズ ムの高層ビルが林立するマンハッタンに注目すべき 二つの高層ビルが竣工した。ケヴィン・ローチ②の「ワンUNプラザ」(1976)とヒュー・スタービンス③の「シ ティコープ・センター」(1977)である。ジェンクスの著 書で触れられていないのは、考察には間に合わな かったのか、いやいや、これらもすでに「死んだモダ ニズム」だとして問題にもしなかったからだろう。 しかしこの二つの高層ビルは私にとって忘れがた いもので、ジェンクスの「ポスト・モダニズム」とは異な る視点でこれらのビルについての私見を書くことに したい。
「ワンUNプラザ」のガラスによる彫刻のような外 観の美しさは当時のマンハッタンでは群を抜いてい た。アイルランドから来てイリノイ工科大学でミースに 学んだローチだが、ミースとは全く異なるアプローチ でシーグラムビルを超克したこれぞ「ポスト・モダニズ ム」である。その後現れた折衷主義などの建築など とは質が違うと思うのだが、建築研究者の間でそれ ほど評価がないのは私の見る目がおかしいのだろう か。たまたまこの年泊まることになったこのビルのホ テル部分は国連関係者のビジネス客を対象とした のか、簡素な中にも行き届いた気配りとデザインで あった。特に地階のレストランのデザイン(私の想像 ではこのインテリアデザインはウォーレン・プラットナー ではないかと思う④)はポスト・モダンのインテリアデザ インとして出色である。 もう一つの「シティコープ・センター」は表題の事件 となったビルだが、ミースのシーグラムビルのすぐ東 側53丁目とレキシントン・アヴェニューの角にあり、四 本の柱で35mも床をあげて巨大なパブリック空間を つくった特異な59階建てのビル。これには北西の隅 にあった教会との敷地問題から同じ場所に教会を 新築するという条件で四本柱を建物の角ではなく 側面の真ん中に設けることになったのである。
こんな条件があったにしても、マンハッタンでこれ だけの空間をグランドレベルからオープンな地階に かけてつくるということは経済的にも英断である。そ の地階にはコーヒーなどが飲める店舗もあり、頂部 の傾斜も含めてこれも私の視点からは「ポスト・モダ ニズム」である。この年偶然にも巡り合い驚嘆したの だが、80年代になって過ごしたニューヨーク生活で は歩き疲れたときの格好の一休みの場所となってい た。このビルが今にも倒壊するかもしれないというこ となど全く知らずに。
事件とは、この年の6月に卒業研究をしていた女子 学生からの一本の電話で始まった。電話を受けたの は「シティコープ・センター」の構造設計を担当したウ イリアム・ルメジャー⑤である。電話の内容は「ビルの隅 に柱はないが大丈夫なのか」という他愛も無い質問 で、高層ビルの構造設計には自信を持っていたルメ ジャーは即座に「大丈夫だよ」と答えたことは言うまで もない。しかし思い直して検討しなおした結果、16年に一度来るぐらいのハリケーンの風がビルの斜めから 吹けば59階建てのビルが倒壊する可能性が判明。さらに施工段階で鉄骨のメガブレースの接合を工事費 の関係で溶接からボルト接合に変更していたことも 強度に影響していたことがわかり、ルメジャーは度肝 を抜かし眠れぬ夜を過ごすことになる。思案に暮れた 末、極秘で関係者を集めて対策を練り補強工事に乗 り出すのだが、すでに入居している人たちにわからな いように深夜にボルトによる接合を溶接に代えるなど スリル満点の工事が行われた。 この事実が公になったのは17年も経った1995年。 雑誌『ニューヨーカー』⑥で「59階の危機」と題して 公表され人々を驚かせた。同時に、設計ミスを放置 せず果敢に改修を指揮した技術者としてルメジャー は称賛されたという。が、高層ビルがひしめくマンハッ タンでこんな話があったとは驚くほかはなかった。80 年代何度もこのビルの下でひと時を過ごしたことを 思い出すとき、建築デザインとは別の感慨を覚える。 シティコープ・センターはよけいな装飾など一切ない が、私にとっての「ポスト・モダニズム」であった。
最後に、これも単なる偶然なのだろうが、ポスト・モ ダニズムが日本で顕在化した年にドイツでモダン・デ ザインの象徴ともいえる車が消えた。ヒトラーがつくり だした国民車の「ビークル」(フォルクスワーゲン社の カブトムシ)がドイツ本国での製造を終了したのであ る。その一方、日本ではトヨタが乗用車の国内販売 台数1000万台を超え、「マイカー時代」が到来。マツ ダもデザインのカッコよさを売り物に「サバンナ RX-7」を発売した。
モノの中でも車(量産車)のデザインは、建築とは 異なり「ポスト・モダニズム」などとは縁遠い存在で あった。
①チャールズ・ジェンクス(CharlesAlexander Jenks,1939 〜2019)はアメリカの建築評論家。ハーバード大学で英文学と建築を学び、ロンド
ン大学で博士号を取得。その後は研究活動を続けながら教育・執筆などのほか設計活動も行った。
②ケヴィン・ローチ(Kevin Roche,1922〜2019)はアイルランドに生まれ
1948年にアメリカに移住。イリノイ工科大学でミースに学び、エーロ・サーリネンの下で働く。1961年にサーリネンが亡くなると、サーリ
ネンが残した大きなプロジェクト(TWA ターミナルビル、ワシントンダレス国際空港など)を完成させる。1966年からはジョン・ディンケル—と共同で事務所を設立。主な仕事はオークランド博物館(1966)、フォード財団ビル(1967)のほか日本では東京の汐留シティセンター(1997)がある。ブリッカー賞受賞。
③ ヒュー・スタービンス(HughStubbins,1912〜 2006)はアラバマ州・ヴァーミングハムで生まれ、ジョージア工科大学とハーバード大学でワルター・グロピウスのもとで建築を学ぶ。シティコープ・センター以後も数多くのプロジェクトに携わった。
⑥ Joe Morgenstern, THE FIFTY-NINESTORYCRISIS , The NEW YORKER,May,1995
④ ウォーレン・プラットナーなどに関しては、拙著『20世紀の椅子たち』の280〜284頁、「ワンUN プラザ」のレストランのデザインについては前掲書の67頁を参照。
⑤ ウイリアム・ルメジャー(WilliamLeMessurier,1926〜2007)は、アメリカの構造技術者。ハーバード大学とMIT で学び建築構造技術者として多くのプロジェクトを行う。受賞も多い。