(20世紀のデザインあれこれ98)
1977年は、世の中が、その文化が転換点を迎えた年である。
アメリカでは大統領がジミー・カーターに代わり核廃絶などを訴え変革が期待されたが、それほどの結果をもたらさなかった。世の中を変えるきっかけをつくったのは、コンピュータという化け物を専門家だけの道具ではなく一般の人々に近づけた、同じアメリカの青年であった。
2年前の1975年、スティーブ・ジョブズ①(当時20歳)とスティーブ・ウォズニアックにロナルド・ウエインを加えた三人の青年がジョブズの自宅(彼らのサクセス・ストーリーには「ガレージ」で開発したとあるが、これは誇張で事実はそうではないらしい)で、プリント配線基板に部品がむき出しの「アップルⅠ」と名付けられたパーソナル・コンピュータ(PC)を完成させ、翌年「アップル・コンピュータ・カンパニー」を立ち上げた。が、商品としては未完成の上さらなる開発には資金も必要になりマイケル・スコットをCEOとして迎える。そしてこの年の4月に開催された「コンピュータ・フェア」で基板やキーボードが一体化しデザインされた商品「アップルⅡ」を発表。文化の転換点となったのである。
思えば、12年も前の1965年、デザインを学ぼうと勇んで留学したイリノイ工科大学で、いきなりデザイン方法論にコンピュータのプログラミング理論が組み
込まれて狼狽したが、その時ジョブズは小学生であったのか、と思うと奇妙な感覚になる。
1977年以来、アップル社はさまざまな経過を経ながらも発展を続け、コンピュータからスマートフォン(スマホ)にソフトウエアまで情報関連を総合したIT企業として「GOFA」②の一角になるまで成長し社会を変えてきた。ジョブズやアップル社に関しては多くの資料があるのでこのあたりにして、アップル社のデザインについて触れておこう。
むき出しの「アップルⅠ」をカバーして「アップルⅡ」という商品にまで格好をつけたのは、大学で機械工学を学んだデザイナー、ジェーリー・マノックである。彼は1977年以来アップル社の製品のデザインに関わり、初代「Macintosh」(1984)ではデスク上で最小のスペースにまとめるという課題を見事に解決した名品をつくりあげた。
もう一つ、アップル社が今日世界中で知名度が高いのは製品の質の高さとともに林檎をモティーフにしたロゴマークが発信する情報力である。ビジュアル・アイデンティティ(VI)としても見事に成功し、今も色あせるどころか類まれなロゴマークの傑作である。社名を「アップル」としたのはジョブズが当時果実食主義を実践していたからというが、これには諸説があり定かでないが、現在のロゴマークにつながったことからもユニークな社名である。最初のロゴは創業者の一人であるウエインが、林檎が落ちるのを見てニュートンが万有引力を発見した逸話から「木に寄り掛かるニュートンが本を読んでいる姿」を描いたものであった。ジョブズは「これでは訴求力に欠ける」と考え、ロブ・ヤノフ③に依頼しロゴマークの名作が誕生した。現在ではシンプルな単色であるが、ジョブズは「アップルⅡ」のカラー出力を印象づけるために6色の横縞が追加された。
この年の日本では、「ピンク・レディ」という若い女性歌手の二人組が踊りながら歌い大ブームを巻き起こし、歌謡曲という概念をひっくり返したことも文化の転換点といえるかもしれない。PCについても研究・開発されてはいたが普及にはさらに10年ほどの時間が必要だった。このころ情報機器として注目されたのは日本語入力の「ワードプロセッサ」(ワープロ)という機器で、80年代初頭に名を馳せたシャープの「書院」の原型がこの年発表されたが発売には至らず、翌年になって東芝が「JW-10」というワープロを発表。1979年になって発売されたがキーボードやブラウン管を含めた本体は片袖デスクの大きさにまでなり、価格が630万円であったというからこれもまだまだという段階であった。
しかし、この年「写真を撮るという文化(価値)」を転換させるカメラが誕生した。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)が売り出した自動焦点調節機(AF)を内蔵した「ジャスピンコニカ」である。
戦後の貧しい時代から日本人はカメラという道具には特別の価値を見出していた。写真を撮ることに縷々講釈をたれ、当時としては希少なカラーの美しい写真雑誌まであり、応募・掲載された写真には絞りやシャッタースピードが細かく記載されていた。50年代後半には給料の何倍もするカメラを買うことを不自然と思わない風土がカメラを輸出商品として育てたのだ。アメリカで日本の家電製品や自動車が見向きもされない50年代末、カメラは輸出品の花形になっていた。
1965年の留学時に持参した「ニコンF」は当時の私の給料の3倍近くしたが、これを見た同級生はひっくり返った。当時のアメリカではコダックの「インスタマチック」というおもちゃのようなカメラが使われていて、「ニコンF」はプロが使う特殊な道具だったからである。収入を加味した貨幣価値で比較すると、貧しい国から来た留学生が「ニコンF」を持つことなど「異常」以外のなにものでもなかった。
この年生まれた「ジャスピンコニカ」は日本人の写真を撮るという文化を変えたが、デザインはこれまでのカメラと変わらなかったのは残念であった。これも日本人のカメラに対するイメージを保つことが販売量を確保すると考えたのだろう。
この年、建築の世界でも、これまでの建築文化を覆した通称「ポンピドゥー・センター」という複合文化施設がフランスのパリに開館した。
1969年に当時の大統領・ジョルジュ・ポンピドゥーがパリに芸術拠点をつくる構想を発表。1971年には国際設計コンペが行われ、681点の応募の中からレンゾ・ピアノ④とリチャード・ロジャースらの案が選ばれた。建物は7階建てで国立近代美術館に公共情報図書館、映画館に多目的ホールなどを含めた複合施設というのも当時は珍しかったが、デザインは珍しいというよりこれまでの建築の概念にはなかったものである。
構造はオーダーしたパーツを組み立てるという「ハイテク建築」とでもいえるもの。通常は内部に隠される設備類の配管が色とりどりに彩色され建物の外側にまるでパイプによる彫刻のようにとりつき、エスカレーターと通路がへばりつく外観。建築に対する既成概念をことごとくかなぐり捨てた建物はパリジャンにとっては理解しがたいもので、当然のごとく景観上の問題で騒動を巻き起こすことになる。一方、建築を論じる識者たちにも多くの解釈を呼んだ。
だが、今やパリの文化と観光の拠点になる。また、アメリカの青年がつくりだしたPCがなければわれわれの生活が成り立たず、普通の写真を撮るのはスマホで十分となった。
1977年は、時代が変わる端緒、文化の転換点になったのである。
①スティーブ・ジョブズ(Steven Paul“Steve “ Jobs, 1955 〜2011)はアメリカ・カリフォルニア州出身でアップル社の共同創立者の一人で、現在の同社の基板を築いた。
② GAFAとはアメリカの巨大な多国籍企業で、Google、Amazon、 Facebook、Apple のことで、Microsoft を加えて「GAFAM」ということもある。
③
④ レンゾ・ピアノ(Renzo Piano, 1937〜)はイタリアの建築家で80年代から世界中で活躍。日本では関西国際空港のターミナルビルがある。