(20世紀のデザインあれこれ63)
世界中に広がった戦火のなか、この年のテーマを探ってみたが「戦争」というキーワード以外に適当なテーマを見つけることはできなかった。
この年のテーマを「戦争とデザイン」にすると、日本ではプロパガンダとしてのポスターやグラフ雑誌などが真っ先に思い浮かぶ。一方、アメリカでは戦争の総本山ともいうべきペンタゴン(アメリカの国防総省)が、とてつもないスケールのオフィスビルとしてこの年の1月に竣工しているが、これもこの年の建築として記録にとどめておきたい。
アメリカには戦争にまつわるデザインが多いのは、西部開拓時代からの経緯や第二次世界大戦以後は「世界の警察」として君臨してきたからである。そんなアメリカでデザインを学び始めた1965年、「戦争にはデザインが必要である」ということを聞いて驚いた話から始めることにしよう。
このころはベトナム戦争が泥沼化しはじめた時期で、クラスの中にはドラフト(徴兵)逃れで大学院へ入ってきた学生もいたし、キャンパスでは「ドラフト」という言葉が飛び交っていた。が、この時ほど戦争とは無関係でいられる私が、それもアメリカで生活していることに「平和ボケ」を感じ入ったことはなかった。
当時、アメリカの高名なデザイン事務所で仕事内容の説明を受けたとき、「ペンタゴンの仕事(兵器のデザイン)もしていて、戦争にはデザインが必要である」と聞いた瞬間、驚愕した。今では驚くことでもないが、私も若く、デザイン観においても「平和ボケ」になっていた。
このときの話を摘示すれば、ベトナムの沼地や山岳地帯の局地戦では既存の兵器やジープなどがそのままでは役に立たず、状況に応じたアレンジが必要で、それには「デザインが不可欠である」という。
考えてみれば兵器もモノだからデザインというプロセスが必要であるのは当然で、このときペンタゴンにはデザインをコントロールする組織があったのである。
戦のための道具として古来日本の刀や鎧に兜、西洋での甲冑の造形などはデザインそのものである。現在、日本の刀装具は美術品として博物館に保存・展示されるが、人間の命に係わり時としてグループのアイデンティティまでを表すデザイン対象は他にないだろう。近代における人を殺傷する道具についても、ジェイ・ダブリン①は彼の著書『One Hundred Great Product Designs』の中で「ウインチェスター・カービン銃」(1873)や20世紀初頭の「ルガー・ピストル」(1908)などをデザインの優れた道具として取り上げているし、その後システムデザインの研究者がペンタゴンに関わっていたりするのを知ると、アメリカではハードだけではなくソフト面においても戦争のためにデザインが大きな役割を担っていることに驚く。
1943年のデザインで戦争に関わるものといえば、成型合板によるモノづくりを模索していたチャールズ・イームズが「レッグ・スプリント」という負傷した兵士の添え木を開発・デザインしたことは、この時期ならでは美挙である。「レッグ・スプリント」の成果により彼の名作「DCW」や「DCM」という椅子の誕生につながり、アメリカのモダン・デザインの嚆矢となったのだから。他にも第二次世界大戦から生まれたものに軍用車両の「ウイリーズ・ジープ」があり、この時代の軍用車両として機能とともにデザイン面でも卓抜なものである。また昨今のステルス戦闘機「F-35」などを見ると、命のかかった戦のための道具は究極の機能を備え「ビジネスのためのデザインなどというレベルを超えたデザイン」が要求されるようだ。
「戦争とデザイン」についてもう一つ。
ベトナム戦争とともに「冷戦」という緊迫した1967年、キューバ危機以来一触即発の時期にアメリカがソ連に投下した「デザイン爆弾」についても触れておきたい。
「デザイン爆弾」などといえば、なんのことかと思われそうだが、日本のデザイン界では全く語られることがなかったために、ほとんどのデザイン研究者は首をかしげるだけだろう。
「デザイン爆弾」とは私流のレトリックで、アメリカ政府が1967年にソ連を巡回させた「アメリカのインダストリアルデザイン」展のことである。これは1959年にソ連のモスクワで開催されたアメリカ展に続き政府(USIA)②が企画し、同じくジョージ・ネルソンがデザイン・プロデュースしたもので、デザイン自体をプロパガンダの主材としてソ連に投下したものである。ネルソン事務所在籍当時、私の後ろの席のランス・ワイマン③がこの展覧会のための小冊子をデザインしていた。このロシア語で書かれた小冊子は、当時のアメリカのデザイン活動から教育の紹介に続いてデザインされたモノの写真をあげながら「資本主義によるモノづくりとそのデザインが人々の生活を豊かにする」という内容がなんともアイロニカルで、こんな展覧会がどうして冷戦下のモスクワやレニーグランドなどで開催されたのか、アメリカという国のしたたかさを思い知った。
「戦争とデザイン」ということで冷戦時代にまで話は及んでしまったが、このあたりで1943年の本題である日本のグラフィックデザインの話にもどそう。
1943年を中心として戦争に関わるプロパガンダ・ポスターや雑誌だけではなく、文字によるアジテーションなどの紙媒体を含めるとその数は膨大で、それらを見ると時代の証言者として当時の事情を生々しく伝えてくれる。しかし、ポスターなどは掲出後に物資不足から裏面を再利用したり、終戦後はGHQの追及を恐れて焼却命令が下された結果、現存するものはそれほど多くない④。また、それらの制作にはデザイナーや写真家だけではなく、横山大観や竹内栖鳳などの大家までが動員されていたことを知ると、私の少しの体験とも重なりながら戦時下の悲壮感が漂う。
当時の数ある海外向けグラフ雑誌のなかで、デザインとして白眉のものが『FRONT』で、日本帝国が対外宣伝のために1942年から45年にかけて10冊が出版された。これを製作した東方社は、参謀本部がソ連の『USSR』に対抗できるグラフ雑誌の刊行をドイツやソ連で映画や写真を学んだ岡田桑三に打診したことから設立された。メンバーには日本工房(名取洋之助によって1933年に設立)から脱退し、戦後のグラフィックデザイン界で活躍した原弘、写真家の木村伊兵衛ら当時の有力作家が多数参加し、見開きページによる写真構成を豊かな表現力と質の高さで他のグラフ雑誌を圧倒していた⑤。
絶対にあってはならない戦争だが、戦争により開発された科学技術から生まれたモノやデザインが戦後の生活に彩りをもたらしたことも事実である。
①ジェイ・ダブリン(Jay Doblin,1920〜89)は筆者の留学中のイリノイ工科大学の教授。1960年に日本の産業工芸試験所の招きで来日し、戦後の日本のデザインの発展に大きな貢献をした。
ウイリーズ・ジープについてもこのころの優れたデザインとして同書で取り上げている。
②USIA(United States Information Agency)は米国文化情報局で、1955年に創設され1999年に国務省に統合。
③ランス・ワイマン(Lance Wyman,1937〜)はアメリカのロゴやシンボルマークを得意とするデザイナーでネルソン事務所時代からの友人。この仕事(1966年)を最後にメキシコへ行き、1968年のオリンピックのロゴやポスターをデザイン。ロシア語で書かれたこの小冊子は筆者が持ち帰り所蔵するが、60年代前半のアメリカのデザイン事情が見事に表されている。日本ではこの一冊のみであると思う。
④最近、長野県の阿智村に残る135枚のポスターを紹介したものに、田島奈都子『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争』勉誠出版、がある。
⑤『FRONT』など当時の写真報道誌に関する参考文献として、井上祐子『戦時グラフ雑誌の宣伝戦——15年戦争下の「日本」イメージ』(青弓社)や立命館大学人文科学研究所紀要86号がある。