1991年 コンピューターによるデザイン新時代

(20世紀のデザインあれこれ112)

 1991年の新年早々、中東で湾岸戦争が勃発する。そして20世紀の世界でなにかと騒がしかったソ連という国がこの年消滅した。日本では8月に株価が暴落し、バブル景気が崩壊に向かった年とされ「失われた10年」ともいわれた90年代の幕開けとなる。
 ただし情報化の波だけは「失われた10年」どころか猛烈な勢いで押し寄せ、関係する機器として「ムーバ」という携帯電話機が発売される一方、パソコン(NECの9800シリーズ)がようやく売れ出しコンピューターによる「デザイン新時代」が到来した。
 もちろん、「情報化」や「コンピューター」といったキーワードの他にも注目を集めたデザインはあった。高度経済成長時代には見向きもされなかった鉄道車両にデザインの光が当たりだしたのである。鉄道会社にとって「観光」という新たな顧客獲得のための経営戦略に加え、成田という国際空港への新たな対応もあってデザインされた車両が登場した。この年の主なものをあげると「スーパービュー・踊り子」や「成田エクスプレス」。翌年には「湘南ライナー」に山形新幹線「つばさ」などがそろって登場し「鉄道ルネサンス」ともいわれる活況を招く。これも三年前に近鉄の「アーバンライナー」が火をつけ、バブル景気もあってようやくJR関係の車両にも注目されるデザインが現れたのだ。
 しかし、この年以後JRの車両開発に疑問がないわけでもない。乗車するのに何十万円以上もする超豪華列車の開発は沿線の人達や庶民を遠ざけてしまった。鉄道は国土を使って人々を運ぶ公共財であり、ほんの一握りの金持ちのために多額の金と引き換えに豪華さを提供するものではない。三年前に「アーバンライナー」と共に通勤車両にもデザインの光を当て、私が目指した「リージョナル・アイデンティティとしての鉄道車両」とは明らかに異なる方向である。換言すれば、車両を単にビジネスのためのPRの道具とし、「沿線の人々とともにある」という考え方を吹っ飛ばしてしまったのだ。
 話をこの年のテーマ「デザイン新時代」に移すと、90年代になりパソコンの普及もあってモノづくりや建築の世界で「CAD」というデザイン作業を支援するソフトが利用されはじめる。その一方でこの年イギリスのティム・バーナーズ=リー①によって開発されたワールド・ワイド・ウエブ(WWW)が契機となり、「ウエブデザイン」という新たなデザイン領域が誕生した。ウエブデザインとは、電子機器上に現れるウエブサイトやウエブページなどの視覚的なデザインをいうのだが、これまでのビジュアルデザインと異なる点は情報を単に視覚デザインとして一方的に伝えるだけではなく、情報を受け取る側との対話的要素を持つことである。今やパソコンやスマホなくして生活が成り立たない時代になり、ウエブデザインの役割は限りなく大きい。日本では「ウエブデザイン技能士」という国家資格まで誕生したが、資格がなければできないというデザインでもない。お金をかけて取得した資格が役に立たないという「インテリアデコレーター」のようなことにならないことを願うのみである。

 もう一つ、この頃「あふれかえる情報をいかにわかりやすく効果的に表示するか」という「情報の視覚化」が大きな課題となる。これまではビジュアルデザインの領域とされるのだが、地図やダイアグラム、複雑なデータや不可視な世界の画像などを構成・デザインするにはコンピュータグラフィックス(CG)の力を借りることが必須となる。ビジュアルデザインというこれまでの枠を超えCGなくして応えられない新たな領域、これを何と呼べばいいのか。「情報デザイン」とでもいえばいいのか、コンピューターの力なくしては成立しないデザインの誕生である。
 このあたりでコンピューターとデザインの関係について簡単に振り返っておくと、コンピューターの造形作業への利用は60年代にアメリカで飛行機製造に応用されはじめたのが最初とされている。現在の「CAD」というコンピューターによる設計支援ツールが開発されたのは1963年にアメリカのコンピューター科学者アイバン・サザランド②によって2次元CAD・「スケッチパッド、Sketchpad」が最初である。しかし当時の日本ではCADなどという用語はもちろんのことコンピューターの力をデザインに生かそうとする考え方など皆無で、「コンピューター」という用語さえ一般化していなかった。企業、それもそこそこのスケールの企業でビジネスの統計や給与計算などに利用されだしたころで、一般には「電子計算機」と呼ばれていた時代。デザイナーにとっては無縁の道具であった。
 個人的体験になるが、2年後の1965年に「アメリカでデザインを学ぶ」という夢を実現し、シカゴに着いて二日目。イリノイ工科大学のクラウンホール(ミース・ファン・デル・ローエの設計による20世紀の建築の傑作で、私はミース教の本堂と呼んでいる)に足を踏み入れ教授に挨拶した途端、今年から「コンピューターによるデザイン方法論」を大学院のカリキュラムに取り入れると言われ、動転した。デザインするという行為は紙の上に鉛筆でアイデアを描くことから始めるものだと信じて疑わなかったからである。
 授業ではプログラミングの初歩を学び、穿孔したパンチカードを大学のコンピューターセンターに持ちこむのだが、出てきた答えは「あなたのプログラミングは間違いです」とだけ。機械を相手のことで文句を言うわけにはいかなかった。しかしここでの教育もCADというようなデザイン作業に直接かかわるのではなく、プログラミング的思考をデザイン方法論に生かそうとするものであった。
 デザイン教育にコンピューター理論が取り入れられた世界初のことである。
 当時のアメリカでもデザインにコンピューターの力を生かそうとしたのは大企業で利用を試みはじめた程度。その後に在籍したアメリカを代表するネルソン事務所でもコンピューターの「コ」の字もなかった。
 爾後、CADに関するソフトとして、71年にはP・J・ハランティによる自動製図を可能にした「ADAM」、77年には最初の3次元CAD「CATIA」、82年になり現在の主流となる「AutoCAD」など次々誕生したが、コンピューターが大型の時代は誰もがデザインに生かすことなどできなかった。デザインとの関係が成立したのはパソコン(PC)が登場した時期からで、それは「マキントッシュ」が登場した1984年からとしておこう。日本でモノづくりや建築設計の領域で利用されるにはもう少し時間を要したのは、日本語入力による国産のPCが必要であったからである。
 私の場合、1965年の苦闘からコンピューター・アレルギーに陥り、それ以後の半世紀は鉛筆だけを頼りにデザインを続けてきた。製作図は他人に任すのだが、鉛筆で描いたイメージと製作図とのギャップを埋めるのに苦労し続けたことは言うまでもない。
 1965年、ミース教の本堂であるクラウンホールでパンチカードを穿孔した体験はコンピューターとデザインの歴史の一頁であるが、まるで昔話の世界を見るようである。

① ティム・ジョン・バーナーズ= リー(Tim John Berners—Lee,1955〜)はイギリスの計算機科学者でロバート・カイリューと共にワールド・ワイド・ウエブ(WWW)を開発。

② アイバン・サザランド(IvanEdward Sutherland,1938 〜)はアメリカの計算機科学者で、「スケッチパッド」をはじめインターネット開発の先駆者。
ハーバード大学など多くの大学で教授を務め、京都賞など多くの受賞歴がある。二〇世紀のデザインあれこれ7

1年前