1990年 バブル景気が生み出したデザイン

 1990年、海の向こうでは東西ドイツ統一という激動の年であったが、日本ではバブル景気がピークを迎え、同時に崩壊の兆しが見え始めた年である。
 日本のバブル景気がいかに度を越したものであったのかについて、当時アメリカの友人の「金があれば何をやってもよいのか」という一言が胸に刺さり、今も思い出す。
 前年のことだが、クリスマスシーズンには飾り付けで賑わうニューヨーク・マンハッタンの象徴的ビル群・ロックフェラーセンターを三菱地所が買収したというニュースは「アメリカの魂まで買った」と揶揄され、顰蹙を買った。「犯意なき過ち」①であったとしてもよそ様の象徴を札束で叩いてはいかんだろう。
 この頃、ディスコで踊り狂っていた若者のように日本という国は狂乱の中にあった。
 そんなバブル景気に陰りが見えはじめ、最後のあがきともいえるこの年。日本人の生活をデザインと関係する部分に焦点を当てながらスケッチしてみると、ディスコでの狂乱などは都市部の若者による特殊例としても、街中では女性たちが「DCブランド」②を纏って闊歩し、家の内では子供から大人まで任天堂が売り出した「スーパーファミコン」に興じる。さらに前年に始まったBS放送によりBS内蔵のテレビが茶の間を彩った。その代表格が松下電器産業(現在のパナソニック)の売り出した「画王」である。なんともバブル景気らしいネーミングで下部の収納部分と一体となったデザインでヒット商品となる。家族で外出すれば「ビデオカメラで撮影を」というのもブームとなり、前年にはソニーが発売した高額の「ハンディカム55」③がグッドデザイン大賞になるなど、家電製品もバブル景気を謳歌していた。こんな時期のデザイン・ジャーナリズムといえば、10年も前にイタリアから発した「ポスト・モダン」とされるアヴァンギャルドデザインを飽きもせず騒ぎ立てていたのは、それが役割とは言え「バブルの最後のあがき」を象徴していた。
 そんな状況下「バブル景気」をキーワードとするデザインの典型をあげると、モノでは「シーマ現象」④とまで言われた高級乗用車が売れるなか、高級スポーツカーの氾濫と、建築では海外のデザイナーを起用し話題性を生かすことが大流行となる。
 バブルによって多額の不労所得を得た人も多く、なかでも車に執着のある人にとって高級スポーツカーは格好の金の使い道。驚くなかれ、海外からの輸入車の上に日本の全ての自動車メーカーが高級スポーツカーを競って発表・売り出したのだ。性能などとともにデザインを含め世界の自動車史を変えたとまで言われ、まさに「バブル」を象徴する現象で今ではとても考えられないことである。主な車種をあげると、トヨタはリフレクタブル・ヘッドライトの2代目の「MR2」(1989)に「スープラ」。日産は「300 ZX」(国内での名称は「フェアレディZ」)(1988)に続いて「スカイラインGT−R」(1989)、マツダは日本だけではなく海外でも売れた「ユーノス・ロードスター」に「RX−7」、ホンダは「プレリュード」に続いてこの年売り出された「NSX」、三菱の「GTO」、スバルの「アルシオーネSVX」(1991)はジウジアーロのデザインで世間を騒がせた。

 この頃の自動車メーカーは好景気を背景にスポーツタイプやコンセプトカーの開発に熱心で、技術開発とともにデザインに対する力の入れようは大変なもの。この姿勢が自動車ショーを頻繁に開催し、90年代から日本車が世界を市場として躍動する起因にもなった。
 なかでもこの年発売されたホンダの「NSX」は、同社のフラッグシップとして当時市販の自動車として類のない「アルミモノコック・ボディ」を採用。後輪駆動の2シータのスポーツカーとしてそのデザインとともに名を馳せ価格もオプションを含めると1,000万円以上になったというが、2005年まで造られた。さらにコロナ禍の昨年には「NSX」の30周年記念のスペシャルバージョンが発表され、価格が2,420万円ということからバブルの再来を想起させた。
 企業でも金の使い道に困ったのだろうか。ニューヨークの建物を買うには少し高すぎると思う企業は逆に海外のデザイナーを起用して建築することが盛んになり出した。
 前年のことになるが、東京・隅田川の吾妻橋の袂に竣工したアサヒビールの「スーパードライホール」の屋上に「金のしゃちほこ」ならぬ巨大な金の炎が燃え上がったのには世間がびっくり仰天。デザインしたのはフランスのデザイナー・フィリップ・スタルクであった。続いて、年末に福岡の春吉にできたアルド・ロッシーによる「ホテル・イル・パラッツオ」、この年になってマリオ・ボッタの「ワタリウム美術館」、ピーター・アイゼンマンの「コイズミ・ライティングシアター」、横浜のビジネスパークの「ベリーニの丘」と名付けられた公園がマリオ・ベリーニのデザイン。翌年に竣工した東京・お茶の水に建つノーマン・フォスターの「センチュリータワー」など、いずれも日本で名の知れたデザイナーや建築家が起用されたのは広告塔としての役割であった。その中で「ホテル・イル・パラッツオ」では内部空間にイタリアのガエターノ・ペッシェ、エットーレ・ソットサス、日本からは倉俣史郎、内田繁らが加わりインテリアデザインの刺激剤となった。
 最後に、なにを差し置いてもバブル景気を象徴する建築がこの年の12月に完成した東京都庁舎(落成式は1991年3月)である。設計したのは戦後から日本の建築界を主導してきた丹下健三で、1957年にできた丸の内の旧庁舎(これも丹下健三の設計)が老朽化し、手狭になったため1985年に新宿副都心に建設されることが決定。指名設計競技により丹下案が選ばれ1988年に着工。まさに日本のバブル景気と軌を一にした建築で桁外れのスケールを誇り、東京のランドマークになると同時にバブル景気のシンボルとなる。
 二つの塔が建つ姿は18世紀後半からイギリスで見られたゴシック・リヴァイヴァルの現代版とでもいえるデザイン。最初に出会ったとき、70年代から何度か訪れ雲をいただく高さに見とれたケルンの大聖堂を思い出したが、都庁舎はケルンの大聖堂をはるかに凌ぎ日本一の高さとなる⑤。一都市の庁舎としてこれだけのスケールの建築は世界を見渡してもない。1930年頃のニューヨーク・マンハッタンで起こった摩天楼の高さ競争でもあるまいが、丹下は東京都庁舎というお役所の建物にデザイン上日本一の高さが必要と考えたのだろうか。現在では考えられないスケールで、これぞ「バブル時代の遺産」である。
 時は「平成」となり、大阪の「あべのハルカス」(2014)が日本一の高さとなるが、東京では日本一を取り戻そうと高層建築が計画されているという。いつの時代になっても建物の高さは都市のシンボルとして一番を競う対象なのだろう。
 バブル景気という特殊な時代の狂乱ぶりも日本デザイン史の貴重な一ページである。

前号の訂正:先月の1989年の「大変動の中で」の右ページの左のコラムの17行目、デザイン会議の開催が1972年とありましたが、1973年のまちがいでした。お詫びします。
① バブル景気を検証・総括した書として、日本経済新聞社の『犯意なき過ち』2000、があり、そのタイトルを引用した。

② 80年代に日本のアパレルメーカーによって売り出された高級ファッションブランドの総称。「DC」とはデザイナーズとキャラクターズを合成された流行語。DCブランドブームはバブル崩壊とともに消滅した。

③ 正式名称はビデオ付きテレビカメラ「ハンディカムCD-TR55」。価格は16万円程度であった。

④ 「シーマ現象」とは、1988年に日産が売り出した高級乗用車「シーマ」が売れたことで、バブル期の高級志向の傾向を「シーマ現象」とされた。

⑤ 参考までに、1884年にできたドイツ・ケルンの大聖堂は157mで当時の世界一の高さであった。戦後の日本で高層ビルとして話題をさらった霞が関ビル(1968)が156m。1978年には東京・池袋のサンシャインが240mとなる。この年東京都庁舎が243mで、3メートルの差で日本一の高さとなる。2年後の1993年に横浜ランドマークタワーが296mとなり、2014年にはあべのハルカスが300mとなる。

7か月前