1982年「おいしい生活」と「これぞデザイン」

(20世紀のデザインあれこれ103)

広告デザインにコピーの力とイタリアの一企業が70年間も社会に向き合った姿

 1982年で、いきなり「おいしい生活」などというタイトルがくると、この年にそんな「おいしいこと」(労せずして儲かること)があったのか、といわれそうである。
 それどころか、新年早々事故続きで1月にアメリカ・ワシントンのポトミック川に旅客機が墜落したかと思えば、2月には日航機が東京湾に墜落やホテル・ニュージャパンの火災。映画界では若いころから憧れた二人の大女優イングリット・バーグマンとグレース・ケリーが相次ぎ亡くなるということもあり「おいしい生活」どころか寂しい年であった。
 「おいしい生活」とは、この年の西武百貨店がうち出したキャッチコピーで、アメリカの俳優ウッデイ・アレンをモデルに使い時代をあらわすコピー(表現)にまでなり、「広告の時代」①の契機となる。このころの日本は貿易摩擦を引き起こすほど経済が順調だったこともあって、若い人たちを中心に「感性消費」といったキーワードによる消費文化が芽生えていた。それ故に「おいしい生活」は冒頭の「不労所得」のような意味とは異なり、物質面だけでなく文化的、精神的に豊かな生活という肯定的な面をあらわしていた。
 このコピーをつくったのは糸井重里で、1980年の「じぶん、新発見」と81年の「不思議、大好き」に続き「おいしい生活」でいっきにコピーライターとしての地位を築き「コピーライターブーム」の火付け役となる。さらに、広告制作にコピーライターだけではなくカメラマンやデザイナーなどのクリエーターが躍動し、広告が批評の対象になり『広告批評』(天野祐吉が主宰)という雑誌までが誕生した。当時、広告デザインで注目された企業として資生堂に加え西武百貨店とパルコの西武グループがあった。なかでも西武流通グループはリーダーであった堤清二の文化戦略と1975年からグループのクリエイティブ・ディレクターであったグラフィックデザイナーの田中一光の力が大きかった。
 これまでのグラフィックデザインといえば「日宣美」の仕事に代表されるように、それが企業広告であってもデザインは図柄(画像)が中心で、伝えるべき情報(言語)はその概要を適度にレイアウトすることで成立していた。80年代(情報化時代)になって訴求する情報をコピーから発想しデザインするという、広告デザインの方法が変わったのである。
 1982年がつくりだしたもう一つの傑作コピーに「おしりだって洗ってほしい」があった。二年前の1980年にTOTOが発売した「ウォシュレット」という温水洗浄便座のコピーで、「ウォシュレット」は「トイレの文化を変えた」とまでいわれた日本ならではの新製品。その革新性とデザインについて「1980年」で取り上げるべきであった。この年生まれた「ウォシュレット」のコピー「おしりだって洗ってほしい」は、製品がユニークだとコピーまで光る好例で、つくったのはコピーライターとして名を馳せた仲畑貴志である。
 このように広告デザインにコピーの力をみた一方、デザインジャーナリズムが騒ぎだしたのが「ポスト・モダニズム」であった。「メンフィス」の情報がこの年になって雑誌②などで紹介されはじめると、一気にアヴァンギャルド・デザインの炎が燃え上がった。「メンフィス」のソットサスに続きアレッサンドロ・メンディーニ、ミケーレ・デ・ルッキらが主導するイタリアからの旋風が吹き続け、日本のデザインジャーナリズムは「これこそがこれからのデザインである」とばかり現実とは乖離したデザインを紙上で騒ぎ立てた。
 こんな傾向は90年代初頭まで続くことになるのだが、アメリカでも「メンフィス」に参加した建築家・マイケル・グレイヴス③が設計したオレゴン州の「ポートランド・ビル」(市庁舎)がこの年竣工し、「ポスト・モダニズム」の典型例として注目された。
 しかし、偶然なのか不思議なことがあるもので、こんな動向とは真逆のモダン・デザイン、それもイタリアからの展覧会がこの年関西で二つも開催されたことは特筆すべきことである。が、ポスト・モダニズムの流れに押され、さしたる話題にもならなかった。


 その一つは、大阪市が姉妹都市を結んでいるミラノ市との共催による「ゴールデン・コンパス賞」展で、大阪市立美術館で開催された。ゴールデン・コンパス賞とは1954年に創設されて以来イタリアの優れたデザインに与えられるもので、この25年余り世界中に影響を与え続けた「イタリアン・モダン」の集大成として意義ある展覧会であった。 もう一つは、「DESIGN PROCESS OLIVETTI 1908−1978」というイタリアのオリベッティ社の展覧会で、「これぞデザイン」というべき凄い内容であったのだが、デザインジャーナリズムは仕方がないとしても、その後は研究者も取り上げず闇に葬られてしまったのは理解不能である。やはり首都・東京で開催されてジャーナリズムが騒がないと研究者も取り上げず、デザイン史に記録すら残らないのだろうか。
 この展覧会は、「ゴールデン・コンパス賞」展が製品中心であるのと異なり、建築からショールームなどのインテリアや展示といった空間。製品はもとよりグラフィックから広告、アイデンティフィケーション・システムに加え文化活動にまでおよそ企業活動としてやるべき全てをデザイン対象として捉えたもの。ナサン・H.シャピラが「オリベッティの70年は今世紀におけるデザイン及び建築の発展史を凝縮している」④というように、優れたデザイナーを適材適所に起用して展開した「イタリアン・モダン」の見事な成果であった。さらに、この展覧会がアメリカのカリフォルニア大学の要請で「企業をめぐる社会的文化的諸問題」をテーマとして企画されたことから、オリベッティという企業が提示したことは単に結果としての美しいデザインよりもそれを誕生させる「意志」を明らかにしたことである。優れた「形」よりも前に「心」が先行していたことの検証でもあった。
 展覧会は世界巡回展として1979年にアメリカからスタートし、日本ではこの年の2月1日から14日まで京都工芸繊維大学で開催された。日本展の名誉委員にはイタリア大使をはじめ、建築では丹下健三、清家清、磯崎新、グラフィックは亀倉雄策、プロダクトは栄久庵憲司、柳宗理に評論家の勝見勝らの錚々たるメンバーが揃い、開幕にはイタリア大使が来場したことは一企業の業績展ではなく、日本のデザイン史上類を見ない展覧会であった。
 思い出すのは1965年、ニューヨークに着くなり五番街のオリベッティのショールーム⑤に駆け込んだ私である。オリベッティについても書きたいことは多いが、創業者カミロ・オリベッティについて一言だけ。彼について語られる時、常に彼の企業経営やデザインマネジメントについての「理念」が注目される。けれど、若いころにアメリカ・スタンフォード大学の初代学長ジョーダン博士から学んだ社会福祉思想により「企業が社会と向き会う姿勢」とりわけ社会福祉面の「社会貢献」が半端でなかったことをあげておきたい②。
 1982年の日本では、広告デザインにコピーの力」が芽生えた一方、「ポスト・モダニズム」の喧騒が激しくなるなかイタリアの「モダン・デザインの結晶」がアメリカから発し、古都・京都で展開されたことは、日本のデザイン史に記録すべき事件であった。

① 「広告に時代」としたのは広告費のレベルでも大幅に拡大した。因みに1975年の広告費が1兆2375億円であったのに対して、80年には2兆2783億円、85年には3兆5049億円へとなる。

②日本で最初に紹介されたのは発刊されたばかりの雑誌『AXIS』VOL.2(1981年12月号)でポスト・モダニズム特集として「メンフィス」とソットサスについて、続いて『JAPAN INTERIOR DESIGN』No.275 1982年2月号で「メンフィス」が特集され詳細にわたって紹介された。

③マイケル・グレイヴス(Michael Graves,1934 〜2015)はアメリカのポスト・モダニズム建築を代表する建築家の一人で、建築以外にもプロダクトやグラフィック・デザインなども手掛けた。雑誌『AXIS』VOL.2(1981年12月号)で「マイケル・グレイヴスの世界」と題して特集され、その中でグレイブス自身が建築を構成する要素の意味を語っている。「ポスト・モダニズム」も建築と家具などのモノとは少し違った捉え方で、建築についてはチャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』以来議論されてきたが、この年の「ポートランド・ビル」は建設前後から建築関係者の間で議論が絶えなかった建築。

④「DESIGN PROCESS OLIVETTI 1908−1978」展のカタログの「序説」でカリフォルニア大学教授・ナサン・H.シャピラがこの展覧会についての記述を参照。

⑤50年代、他国における企業のショールームは唯一の情報の窓口であった。アメリカのデザイン発展をリードした企業のIBM。その会長であったワトソン・ジュニアがデザインに目覚めたのもショールームでオリベッティのデザインを知ってからである。

2か月前