1975年 「コーポレート・アイデンティティ」の先駆け

(20世紀のデザインあれこれ96)
 この年の春、30年にわたって死闘を繰り広げたベ トナム戦争が数えきれない惨事の爪痕を残して終わった。 日本では経済不況のなか、沖縄で本土復帰記念 事業として沖縄海洋博が開催される一方、本土で は街中に「matsuda」という新たなロゴによる看板 が目立ち始める。これが日本での「コーポレート・アイ デンティティ(CI)」の先駆けであった。「matsuda」とは、1920年に創業され、1927年に 事業の拡大から社名を「東洋工業」とした自動車を 製造する現在の「マツダ」のロゴ1である。
 デザインが企業の経営資源の一つであることは 今さら声高にいうまでもないが、日本の1975年のトピックスとしてCI についての記述をあまり見かけることがない。それは、研究者の多くがデザインを芸術と同様に「作品」としてとらえて論じるからで、CIなどは抜け落ちてしまうのだろう 。
東洋工業がこの年設置しはじめた看板だけを見 て「CIという概念」のもとにやっているのだとは正直いってわからなかった。同社では広報部を中心に、1971年頃からCI についての先駆的活動をしていた中西元男と協同でプロジェクトを立ち上げ、CIという概念を「CIS Tree」という全体像で明確にしたのだ。 そのなかでロゴを中心に事務用品や看板・サインな どのビジュアル・アイデンティティ(VI)は当然として、 作業員の服装や建築関係ではディラー・ショップ、さ らに製品の自動車までを含めてCIを構築しようとし たことは世界でも類を見ない画期的な計画であった。 「CIとはなにか」については人によりニュアンスは多少異なるが、ここでは些か乱暴を承知のうえで「企業が自らの理念をアイデンティティとして確立す べき姿を多くの対象を通してデザインし、明確なメッ セージとして社会に発信すること。と同時に企業内 部においても共有することで自らの存在価値を高めようとする経営手法」としておこう②。
 定義はともかくとして、欧米では20世紀の早い時期からCIなどという概念などなかったが、デザインを経営資源としてCIと同じ、いやそれ以上のことをやっていた企業があった。古いところでは、ペーター・ベーレンスが1912年にAEG社のタービン工場を設計したのをはじめとして製品からロゴマーク、さらに店 舗 ま で デ ザ イ ン し た こ と は 、企 業 活 動 の 多 く の 場面にデザインの力を発揮させた嚆矢である。

 1945年以後の欧米で、デザインを経営資源として自らのアイデンティティを確立した企業としては、イタリアではオリベッティ、アメリカではIBMとハーマンミラーがある。
 奇しくも、これらは経営者とデザイナーの関係にお いて三社三様でなかなか面白い。オリベッティの場合は、ヒューマニストで芸術にも造詣が深かった創業者カミッロ・オリベッティの理念 を継いだ息子のアドリアーノは、デザインのみならず 文化事業や社会福祉の面でも尽力し企業価値を 高めた稀有な経営者である。デザインでは自ら当時 のイタリアのトップデザイナーを適材適所に起用しな がらオリベッティを世界でも類のないデザイン主導の 企業へと育て上げた。製品のタイプライターにはマ ルチェロ・ニッツオーリ、ビジュアル面にはジョバンニ・ ピントーリ、さらにショールームはサンマルコ広場ではカルロ・スカルパを起用したことはよく知られたところ。さらに1954年にはニューヨークの五番街にはBBPR3を起用したショールームのデザインはニューヨーカー を驚かせた。 この五番街のショールームを見てIBMのトップで あったワトソン・ジュニアはデザインがビジネスに資す ることを学び、「Good design is good business」と まで言うほどにデザインに目覚めた経営者となる。彼 は1956年にMoMAのキュレーターでもあったエリ オット・ノイスをコンサルタントに起用し、二人三脚でデザイン主導の企業へとIBMを導いた。ノイス自身も「セレクトリック・タイプライター」(1961)をデザインす るが、デザイン・プログラムをつくり工場内のデザイン 部門を組織化する。また外部のデザイナーとの協同 については、ロゴなどグラフィックデザインの強化に ポール・ランド、映像や展示会のためにはチャールズ・イームズに依頼。建築関係では、ミース・ファン・デル・ ローエ、マルセロ・ブロイヤー、エーロ・サーリネンらの 建築家にも協力を仰ぎ、多くの建築関係のプロジェ クトにも注力した4。 ハーマンミラーの場合は、トップのD.J.デプリーが 1946年にジョージ・ネルソンをディレクターとして、製 品はもちろんのこと工場やショールームからロゴをは じめとするカタログなどのVIに至るすべてを彼のデ ザインに任せる。例外として、チャールズ・イームズのデザインとテキスタイルをアレキサンダー・ジラードに 委ねたが、ネルソン事務所には建築家をはじめ多様 で能力のあるデザイナーが揃っていて、このシステ ムは60年代の半ばまで続けられ、ハーマンミラーは 歴史に残るデザイン主導の企業であった。
 「VIだけがCIではないといわれるが、企業にとって建築に関するマネジメントはVIほど簡単ではない。ノイスとネルソンはともにハーバードとイェール で建築を学び、建築家としてスタートしたことから幅 広い視点でデザインを捉えることができたといえる。 東洋工業の場合は、工場などの建築はすでに存 在していたであろうが、アイデンティティ発信の場とし てはディラー・ショップが重要な対象として「CI S Tree」の中に位置づけされていた。しかしショップをCI の一環としてデザイン(マニュアル化)することは簡単ではない。街中では敷地条件もさまざまで、これをどのように展開したのかは不明である。従来のショップにサイン程度で装うぐらいが精いっぱいで あったのではなかろうか。 遡ること10年前の1966年、ネルソン事務所で建 築チームがフォード社のディラー・ショップのマニュア ル化を進めていたのを見たことがある。アメリカでは ディラー・ショップは郊外の道路サイドに建設される のがほとんどで、豊かな敷地に大きさや角地などの 条件別にショールームやサインポールが組み込まれた大き な モデルが何種類か制作されていたのだ 。 実現したのかは不明だが、マニュアル化もここまで やるのか、と驚嘆した。 製品についても、自動車や電気製品をつくる大企 業ではCI 戦略として製品をデザインすることは難し いし、今やない。マーケティングなどビジネス戦略が 優先され、時に応じて他社との「横並び」的な製品 も必要だからである。デザイン、その造形が高度に 発展・展開される現在ではエンブレムを外せばどこ の製品かわからないのも実態である。
この年を契機に80年代からの日本でCI が大流 行したが、多くの場合ロゴなどVIを中心に展開され たのが正直なところであった。 そしていま、「デザインをいかにマネジメントする か」が問われる時代となった。

7か月前