1973年 ニューヨークとシカゴに対してシドニー、そして京都では

(20世紀のデザインあれこれ94)
 2001年の9月11日、ニューヨークで悪夢のような出来事が起こった。「これは現実なのか?」としばらくの間信じられず、悲愁に襲われた。
 20世紀のアメリカ・ビジネス社会を象徴するニューヨークのワールド・トレード・センター(WTC)①が崩落した通称「9.11同時多発テロ事件」のことである。この年の4月にできたWTCが崩れていくのをテレビで見ながら、このビルをデザインしていた最中のミノル・ヤマサキ②の事務所で見た模型が崩れていくような錯覚が脳裏で交錯していた。
 さかのぼること8年前の1965年の秋。IITでのコンピューター理論を応用した授業に悪戦苦闘していた週末、グレイハウンドの夜行バスに飛び乗りデトロイトへ。目的は気分転換にクランブルック・アカデミーを見てみたくなったからで、ミース教の本堂で学んでいるのだからついでにラファイエットパーク③も見ておこうと考えた。
 デトロイト郊外のクランブルックはシカゴのIITとは異なり緑に包まれた美しいキャンパスで、アメリカではトップクラスの美術大学である。かつてチャールズ・イームズとエーロ・サーリネンらが新たなデザインを模索しながら日夜切磋琢磨していたころの熱気に思いを巡らしながらキャンパスを歩くと、イームズが「あの頃はワインでいえば、ヴィンテージ・イヤーだった」と言うのもわかるような気がしていた。
 シカゴへ帰る夜行バスに乗るまで時間があり、突然ミノル・ヤマサキの事務所を訪ねてみようと考えたのは、前日にウエイン大学④でヤマサキのデザインに触れたからであったが、今考えても無謀で若気の至り。所在もわからず、唯一の情報源である「イエロページ(電話帳)」で住所を調べて探して行ったのだから、われながら当時の貪欲さには呆れかえる。「情熱をぶつければ叶うこともある」という一念で事務所の受付女性に「事務所を見せてほしい」と懇願し実現する。たまたま日本から来ていた若い建築家が案内してくれたのだが、広い仕事場に世界中からやってきた若い建築家が向こうがかすむほど並んだ光景は、当時アメリカで最も輝いていた建築事務所だとしても、異様で驚愕した。帰りがけ受付の隣の部屋であまりの高さで天井板を破って中まで入り込んだWTCの模型を見たが、先端部分が隠れた状態は、今考えると冒頭の「崩れゆくWTC」そのままのようであった。

 ふた昔前にイームズやサーリネンが苦闘したクランブルックと躍動するヤマサキ事務所の熱気に触れ、シカゴへの夜行バスでは微睡ながらもやたら興奮していた。
 当時、WTCは世界で最も高く美しいツインビルとして書くべきことも多いが、最上階の「ウインドウ・オン・ザ・ワールド」というレストランがワーレン・プラットナー⑤のデザインであったことは記しておこう。
 1930年ごろのニューヨークではクライスラー・ビルとエンパイヤー・ステート・ビルが高さを競ったが、この年アメリカで40年ぶりに二度目のビルの高さ競争が始まっていた。世界一となったWTCに負けじとばかりシカゴに「シアーズ・タワー」(現在はウイリス・タワーという名称になり、118階建ての442mで設計はSOM)が姿を現すのは翌年のことになるのだが、WTCをあっさり抜き去り世界一となったのである。ロックフェラー家のWTCをシカゴの百貨店であったシアーズが抜いたことでシカゴアン(シカゴ人)は少しばかり鼻を高くした。
 というのも、1871年に起こった大火事以来シカゴは建築家が集まり高層ビルの競演の場となり、その後は近代建築の宝庫であったという自負もあったからだ。
 アメリカでのビルの高さ競争の一方、別次元のユニークな建物がこの年オーストラリアのシドニーに姿を現した。それは「オペラハウス」で1981年に世界遺産にもなり、シドニーといえばオペラハウスが思い浮かぶというシンボル的存在となっている。
 デザインしたのはデンマークのヨーン・ウツソン⑥だが、竣工までには数々の難題や逸話があった。設計案は20年も前の1954年に国際コンペが行われ233の応募があり、ウツソンの案は当初落選していたという。しかし冒頭でも記したエーロ・サーリネンが審査員を務めていて、彼が強く推してウツソンの案が復活し基本のデザインとして決定した。
 コンペから5年も経った1959年に着工されたが、どうして竣工までに13年もかかったのだろうか。あまりにユニークな形状のために難しい構造上の問題や増大する建設費などが重なりウツソンとの間にトラブルが発生して1966年にウツソンは設計管理から辞任しデンマークに帰国してしまう。彼は二度とオーストラリアの地を踏まなかったといわれるが、後を継いだチームがウツソン案を修正しつつこの年完成にいた。
 当時、WTCは世界で最も高く美しいツインビルとして書くべきことも多いが、最上階の「ウインドウ・オン・ザ・ワールド」というレストランがワーレン・プラットナー⑤のデザインであったことは記しておこう。
 1930年ごろのニューヨークではクライスラー・ビルとエンパイヤー・ステート・ビルが高さを競ったが、この年アメリカで40年ぶりに二度目のビルの高さ競争が始まっていた。世界一となったWTCに負けじとばかりシカゴに「シアーズ・タワー」(現在はウイリス・タワーという名称になり、118階建ての442mで設計はSOM)が姿を現すのは翌年のことになるのだが、WTCをあっさり抜き去り世界一となったのである。ロックフェラー家のWTCをシカゴの百貨店であったシアーズが抜いたことでシカゴアン(シカゴ人)は少しばかり鼻を高くした。
 というのも、1871年に起こった大火事以来シカゴは建築家が集まり高層ビルの競演の場となり、その後は近代建築の宝庫であったという自負もあったからだ。
 アメリカでのビルの高さ競争の一方、別次元のユニークな建物がこの年オーストラリアのシドニーに姿を現した。それは「オペラハウス」で1981年に世界遺産にもなり、シドニーといえばオペラハウスが思い浮かぶというシンボル的存在となっている。
 デザインしたのはデンマークのヨーン・ウツソン⑥だが、竣工までには数々の難題や逸話があった。設計案は20年も前の1954年に国際コンペが行われ233の応募があり、ウツソンの案は当初落選していたという。しかし冒頭でも記したエーロ・サーリネンが審査員を務めていて、彼が強く推してウツソンの案が復活し基本のデザインとして決定した。
 コンペから5年も経った1959年に着工されたが、どうして竣工までに13年もかかったのだろうか。あまりにユニークな形状のために難しい構造上の問題や増大する建設費などが重なりウツソンとの間にトラブルが発生して1966年にウツソンは設計管理から辞任しデンマークに帰国してしまう。彼は二度とオーストラリアの地を踏まなかったといわれるが、後を継いだチームがウツソン案を修正しつつこの年完成にこぎつける。総工費は当初予定の14倍にもなったという。ウツソンが激怒してデンマークに引き上げた後、彼がいかに苦悩したかを思わせる証がある。デザイン書には全く取り上げられないが、彼は1968年になってオペラハウスを彷彿とさせる「システム・シーティング」⑥というこれまた独創的なソファのシステムをデザインしている。残念ながら市場には多く出なかったためにデザイン史に記録されることもなかったが画期的で、ウツソンのシドニーへの思いを痛いほど感じるデザインである。
 オペラハウスに呼応したわけでもなかろうが、この年以後世界で活躍した二人の建築家によるユニークなデビュー作(住宅)が誕生した。アメリカではリチャード・マイヤー⑦の「ダグラス邸」、スイスではマリオ・ボッタ⑧のリヴァ・サンヴィターレの住宅である。独創的なオペラハウスが竣工した年に、自然豊かな地形を生かしたこれまた独創的な二つの住宅デザインが誕生したことは偶然としても、アメリカにおける高さを競ったビルと対照的で、建築におけるおもしろい年である。
 この年、日本では「石油ショック」で大騒動となり、慌てた主婦がトイレットペーパーを買いあさり、スーパーから消えるという珍事まで起こる。
 エネルギー問題が顕在化するなかデザイン界では「世界インダストリアルデザイン会議」というビッグイベントが10月11日から三日間京都の国際会議場で開催された。
 この会議はICSID(国際インダストリアルデザイン協議会─36カ国58団体)が隔年毎に開催される国際会議であるが、この年京都で開催された会議では「人の心と物の世界」をテーマに、自然、人間、社会、文化の四つの分野でディスカッションが行われた。参加者は2245名(海外からは38カ国から448名)にも及ぶスケールの大きなものであった。関西在住の若手であった私などは準備と会期中のサポート役に徹し、海外からの参加者のために今でいう「おもてなし」に明け暮れた。
 これを最後に日本でこれほどの世界的なデザイン会議が開催されなくなったのは、デザインの価値がそれなりに認知され、社会にアピールする必要が少なくなくなったからである。

①ワールド・トレード・センター(WTC)はニューヨークのマンハッタンの南端に1973年に竣工したコンプレックスの中で高層ビルは1WTC”と2WTC という二つで、高さは1WTCが417mで竣工時は世界一の高さであった。設計はミノル・ヤマサキ

②ミノル・ヤマサキ(1912〜1986)はワシントン大学で建築を学んだ日系のアメリカ人建築家。ニューヨークのWTCが代表作でアメリカでの受賞作も多い。日本でも建築学会・作品賞を受賞している。

③ラファイエットパーク(Lafayette Park、1956)は、デトロイトのダウンタウンの西に、ミース・ファン・デル・ローエがバウハウス時代からの同僚でIITでも教鞭をとっていた都市計画家のルートヴィヒ・ ヒルベルザイマーの協力を得て共同で設計したタウンハウス群。尚、ヒルベルザイマーは筆者がIITで学んでいたころはクラウンホールで教鞭をとる姿をよく見かけたが1967年にミースより先に亡くなった。

④ウエイン州立大学内にあるMcGregor Memorial Conference Center で2015年にはアメリカの歴史的建築のランドマークに選ばれている。

⑤ウォーレン・プラットナーについては拙著『20世紀の椅子たち』の280〜283ページ参照。

⑦リチャード・マイヤー(Richard Meier,1934〜)はアメリカのモダニズムの建築家。

⑧マリオ・ボッタ(Mario Botta, 1943〜)はスイスの建築家で、建築設計ほか家具もデザインしている。拙著『20世紀の椅子たち』の380〜383頁参照。

⑥ヨーン・ウツソン(Jhon Utzon,1818〜2008)はデンマークの建築家でシドニーのオペラハウスが代表作。彼が1968年にデザインした「システム・シーティング」については拙著『20世紀の椅子たち』312頁〜315頁を参照。尚、拙著では「ウッツオン」と表記したが、日本では「ウツソン」と表記するものが多いのでここでは「ウツソン」とした。

(20世紀のデザインあれこれ 94)

9か月前