1970年 大阪万博が残したもの

 1970年は、なにをさしおいても大阪万博である。戦後から25年。経済成長とともに日本が国際舞 台への足がかりを目指し、夢を語ろうとした国をあげてのイベントであった 。多くの日本人が連日詰めかけたのは、見たこともない桁外れの造形文化、特に海外のパビリオンに酔いしれたからである。
2025年にはまた大阪で万博をやるようだが、64, 00 万人もの入場者を記録した大阪万博の二匹目のド ジョウはいるのだろうか。開幕三年前の1967年、万国博覧会とはどういうものかなど何もわからないまま万博協会の職員となり、デザイン料の予算獲得に取り組んだ。が、私もまだ 若く、デザインをマネジメントすることに興味を持つこ とができず開幕を待たずに退会した。その後は、万 博のデザインにも直接かかわりながら開会式前日に は会場の片隅で徹夜作業をしていた。
 19世紀の万博は参加国の文化のショーケースと してその後の開催国や世界に残したものが大き かった。ヨーロッパに根付いた「ジャポニズム」もそ一つであり、パリのエッフェル塔などの記念碑的建造 物がヨーロッパの街中に今も多く残る。さらに「アール・ヌーヴォー」という造形様式までも生んだ。
翻って、大阪万博の残したものは何だったのだろうか。「太陽の塔」だけだったとしたら少々寂しいが、19世紀とは社会事情が異なる1970年では「かたち あ るもの」を残すことが難しかった。あえて言えば、竹やぶだった丘陵が「千里」という広大なニュータ ウンに生まれ変わったことかもしれないが。
 戦後から25年を経て経済発展を遂げつつあった とはいえ、海外旅行など「夢」であった時代である。 日本全国から来場した人にとって初めて見る海外の造形文化はなんとも眩しく新鮮に映ったのだ。大阪万博の残したものは「かたちあるもの」ではなく、多くの日本人が国際的な造形文化の香りを嗅ぎ、造形に対する感性が一皮むけたことである。
 ところが、「かたちあるもの」を残そうとして些細な できごともあった。閉幕した翌日、高島屋で海外のパビリオンでいらなくなったものを買い集めて売ろうと いうプロジェクトが立ち上がり、そのメンバーになったのである。かたづけ出した外国のパビリオンへ行き 持ち帰らないものを交渉して買うのだが、時間的制 約から即決する度胸が求められた。
 その結果は、現在にまで残るようなものを見つけることはできなかった。日用品レベルのモノは金さえ出せば輸入品としていくらでも買うことができたから で、すでにこのころ文化は「かたちあるもの」より「情 報」が大きなウエイトを占め始めていたのである。
唯一思い出に残るのはフランス館でオリヴィエ・ムルグの人型の椅子「ブールーム」1の原型であるオ ブジェを見つけて買ったぐらい。用途のない単なる オブジェだったが、その後道路わきの標識になって いるのを見つけうれしくなった。もう一つ、今はなく なった国・チェコスロバキア館のVIP室にあった安楽椅子が今わが家の居間に鎮座している。デザイナーは不明であったが、ヌメ皮の美しい座と背によ る構成はユニークなものでたまたま未使用の新品が あり、高島屋で売り出した初日の朝に出向いて買っ た。椅子の幅が80センチ近くもあり座り心地もよくなく、デザイン史に残るようなものでもない。が、座るたびに バルセロナ博(1929)のミースのバルセロナチェアー を思い出しつつ、1970年のVIPのための椅子として これもありか、と。いまや大阪万博の唯一の生き残り 品であろう。

 万博会場で展開されたデザインについても触れ ておくと、全体計画から基幹施設は丹下健三が中 心となって計画・デザインした。お祭り広場あたりの 写真は太陽の塔とともによく紹介されているので割 愛するとして、国内外のパビリオンではレベルの高い 展示が繰り広げられた。だが暑い日中に数時間も並んで見るという価値観もなく、正直あまり見ていない。 むしろ夜に外国のパビリオンで飯を食うというのが 万博の楽しみ方であると考え、夜にはよく行った。夜 のスイス館の「光の木」の美しさは今も記憶に残る。
 大阪万博の会場全体にかかわるデザインで特筆 すべきことは、「ストリートファニチュア」という概念が 確立したことである。
 三年前、協会にデザイン課がスタートしたときから やるべき課題はサイン計画を含めた「ストリートファ ニチュア計画」であった。このための予算獲得に奔 走したこともあって協会を離れた後もその成果に注 目していた。
 公園のベンチやゴミ箱などはこれまでにもデザイ ンされたものはあった。しかし万 博 会 場は大 勢の 人々が全国から初めて訪れる街である。少々大袈 裟かもしれないがサインや情報関係を含め新たな 街のインフラが必要であった。ベンチからごみ箱はいうに及ばず、暑さをしのぐシェルター、電話ボックス、 郵便ポスト、各種情報スタンドなどにサインを含めた 照明ポール、これら多くのアイテムを明確なコンセプトでデザインされることが必要であった。デザインし たのはGKインダストリアルデザイン研究所(以後は GKとする)と他二つの事務所2の共同体で、ディレクターにGKの栄久庵憲司があたった。彼らはこれら 多くのアイテムを万博会場という特殊性を生かし縦 割り行政の枠を超え幅広いアイテムを総合化するこ
とに成功したのである。
 日本の工業デザインが企業の商品だけではなく、 街のインフラとしての「ストリートファニチュア」に力を 発揮した最初である。上記のチームで実質的なデ ザイン作業をしたGKの西沢健は万博以後日本の 多くの街でストリートファニチュアを展開した。 サイン関係の書体などについては1967年の項で
もすでに触れたが、ピクトグラムは福田繁雄の個性が発揮され 、「迷子サイン」は万博ならではのユニークなものであった。
 二度と大阪で万博など開催されないと思ってい た1997年、大阪市港湾局が大阪の「咲州」という新しい街を対象にストリートファニチュアの国際デザインコンペ3を世界に向けて企画。その審査員を西沢と勤めながら万博時代の話にも花を咲かせたが、まさか2025年にしかも隣の「夢洲」で万博が開催されるとは、不思議な縁を感じずにはおれない。
 「人類の進歩と調和」をテーマに21世紀への夢 を語ろうとした大阪万博。今になってみると、人間の あくなき欲望を科学技術によって「進歩」につなげた例は際限なくあげることができる。その一方の「調和」の方はどうであっただろうか。
 折から公害問題などが顕在化するなか、皮肉に も万博開幕と同じ3月に地球規模での諸問題(資源、人口、環境破壊など)に対処するために世界各国の科学者、研究者、経済人、学識経験者など100人が集まりイタリアで「ローマクラブ」④が発足し、二年後にはレポートとしてデニス・メドウズらによる『成長の限界』⑤が出版された。その中で多くの警笛が鳴らされたにもかかわらず、半世紀を経て自然との調 和が悪化の一途をたどるのを見ると、これも人間の限りない「欲望」という悪魔の仕業なのだろう。
① 拙著『20世紀の椅子たち』の272〜275頁参照。尚、フランス館の内部はオリヴィエ・ムルグのデザインである。
②1967年当時、日本で組織力のある工業デザイン事務所はGKぐらいであった。しかし万博の仕事を随意契約することが難しく、東京で家具のデザインに強い剣持勇事務所と大阪のトータルデザイン事務所の2社を加えてデザイン契約することができた。
③ このコンペは財団法人国際デザイン交流協会の協力のもとに行われ、55カ国から総応募数531点があり、賞金総額800万円で大賞は300万円という大きな規模の国際コンペであった。入賞作品の中には素晴らしい作品もあったが、実現化されなかったのは残念なことであった。
④ イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ぺッチェイらによって地球上の様々な課題、とりわけ資源や環境破壊などの問題に対処するための会合を世界各国の学識経験者など100人が集まり、イタリアのローマで1970年に正式に発足。
⑤ ローマクラブの委嘱を受けてマサチューセッツ工科大学のデニス-メドウズらがシステムダイナミクスの手法によりまとめたものを1972年に発表。日本ではダイヤモンド社から出版された。

4週間前