1968年 世界中騒乱のなかメキシコと日本では

 1968年は世界中の若者が立ち上がり、騒乱状態となった極めて特異な年である。
 5月にフランスで起こった通称「五月革命」をはじめとして、東西の壁の向こうでも「プラハの春」と今も語り継がれている事件。アメリカでは黒人解放運動の象徴であったキング牧師の暗殺など世界中騒乱といっても過言ではなかった。
 ただこれらはお互いにそれほど関連するものではなく、衛星中継によるメディアによって影響しあって拡大した。数年前に起こったベトナム反戦運動を端緒として、既存の秩序を変えたいという世界中の若者の行動の表れでもあった。 デザインでラディカルな展開を遂げつつあったイタリアでも騒動はあり、この年14回目を迎えたミラノ・トリエンナーレ展の会場が一時デモ隊によって占拠された。
 こんな年のデザインとして「何を書くのか」と言われそうだが、4年前の東京に続きこの年メキシコシティで開催されたオリンピックのデザインを採り上げることにしたい。
 しかしメキシコにおいても例外ではなかった。なんとオリンピックを9日後に控えた10月3日に学生らのデモ隊が警察や軍と衝突して銃撃戦になり300人近くの死傷者が出たという。こんな状況下でオリンピックを開催するなど日本ではとても考えられないが、10月12日にラテンアメリカで初めてのオリンピックが幕を開けた。
 4年前の東京オリンピックの翌年、シカゴに留学中のクリスマス休暇を利用してバスで一週間をかけてメキシコまで旅をした。南部の街のトイレなどで人種差別の痕跡も見ることができたが、メキシコでは出稼ぎ労働者として明治時代に日本から移住してきたお年寄りにもお会いできた。彼らは2年後に控えたオリンピックについて「東京オリンピックは素晴らしかったが、メキシコではあんなことはとてもできないだろう」と口をそろえて言うのを聞いた。日本への思いがそう言わせたのであろうが、どうしてどうして東京に勝るとも劣らないデザインが展開されたのだ。
 それはビジュアル面で、「MEXICO68」というロゴをはじめ競技のピクトグラムはもちろんのこと、驚くなかれアルファベットや数字に至るまでのビジュアル・アイデンティティ(VI)が見事に構築されたのである。これらをポスターなどの印刷媒体だけではなく多くの場面に展開した初めてのオリンピックで、以後ここまでやったオリンピックはない。それもすべて一人のデザイナーによってデザインされたのである。

 デザインしたのは、かつてネルソン事務所で机を並べていたランス・ワイマン①。彼は前年(1967)の項で書いたソ連でのデザイン展の小冊子をデザインした男で、この時以来の友人である。オリンピックから20年後の1988年、ニューヨークに滞在した機会に彼の家で旧交を温めたのだが、オリンピックのオフィシャルポスターにサインをしてもらい持ち帰ったものが今手元にある。この大きなポスターを見るとネルソン事務所時代のことが蘇る。
 1966年の暮れのこと。彼の結婚式に招かれた数日後、「オリンピックのデザインをするためにメキシコへ行くので事務所をやめる」と言って、彼は去っていった。
 どうしてオリンピックという国を挙げてのイベントのデザインを他国(アメリカ)の、それも29歳の若造がデザインできるのだろうか。正直、半信半疑であった。翻って、東京オリンピックのオフィシャルポスターは亀倉雄策らの日本のトップスターが大騒ぎしてデザインしたのである。
 経過はともあれ、1967年の年末にメキシコから送られてきた彼のクリスマスカードにはこの時までにできていたVI類が大きな封筒に詰まっていて、仰天した。開催後のこの年のクリスマスに送られてきた封筒にはオリンピック競技を図案化した記念切手が貼られていたし、女性の服装や屋外のサイン塔までその展開の幅広さに驚嘆した②。
 彼が友人であるから評価するのではない。これまでのオリンピックでこれほどVIを多くの場面に展開されたオリンピックがあっただろうか。4年前の東京ではポスターをデザインした亀倉雄策とは別にピクトグラムは勝見勝らが中心としたチームによってデザインされた。東京ではトータルにオリンピックのデザインを指揮する司令塔などなかったのである。メキシコではビジュアル関係の全てを一人の若造に任せたのだから一本筋が通っていた。こんなことはよほどの条件下でしかできないことで、良し悪しは別として最初で最後だろう。基本となった細い縞模様もまたどこかメキシコらしさを醸し出していた。
 オリンピックで評価を得たランスはその後メキシコの地下鉄や動物園のピクトグラムなどもデザインしている。
 一方この年の日本は日大や東大での学生運動は激しかったが、年末には3億円窃盗事件という前代未聞の事件まで起こり、世界と同様に騒がしかった。
 デザインでは、これまでになかったものとしてポスターのデザインと、東京という街を変えることになった超高層ビルの二つを採り上げることにしよう。
 60年代の日本のグラフィックデザインは1951年に創設された日本宣伝美術会(通称「日宣美」)という組織が毎年開催してきた展覧会を中心に、会員の制作活動やこの展覧会に応募する若手の熱気がすべてであるといってもよく、質の高い日本特有のデザインが展開されていた。しかし1963年ごろから会員の中にも「これでいいのか」といった反省が表面化する。さらに日宣美の権威が増すにつれ美術系学生の標的となり、翌年にはゲバルトを仕掛けられて展覧会が中止に追い込まれ1970年には解散に追い込まれる。
 他方このころラディカルな表現活動をしていたものに寺山修司や唐十郎らの前衛演劇活動があり、会員の一人であった横尾忠則はこれらのポスターをサイケデリック調の色彩でデザインし日宣美会員の仕事の中にあって異彩を放っていた。さらに翌年になるが、雑誌『デザイン』で「原点から幻点へ」と題したデザイン論を連続して展開した。
 この年の建築では、なにをさておいても初めて超高層の「霞が関ビル」が出現したことである。32階建て地上135メートルの霞が関ビルが、戦後から20余年も経過した60年代末の東京でもいかに突出したものであったかは当時の写真を見れば明らかである。
 設計したのは公式には山下寿郎設計事務所となっているが、この大プロジェクトをチームリーダーとして牽引したのは建築家・池田武邦である。アメリカなどとは異なる環境条件のもとで竣工までに池田のみならず多くの人の苦闘があったことは想像に難くない。池田はこれ以後日本設計の社長として、新宿の京王プラザホテルや三井ビルの高層建築を連続して手がけ東京のスカイラインを変えた。
 最後に、このころの世界の建築の動向を幅広くとらえたものとして「1968年」が書名にまでなった磯崎新の著書『建築の解体̶1968年の建築情況』をあげておく。

① ランス・ワイマン(Lance Wyman,1937〜)はニューヨークのプラッツ・インスティテュートで工業デザインを学んだグラフィックデザイナー。ネルソン事務所時代には1964年のニューヨーク博のクライスラー館でユニークな工場内の標語をポスター化した「プロントポスター」をデザイン。オリンピック以後はニューヨークで企業のロゴやシンボルマークなど多方面で活躍。プロントポスターについては拙著『20世紀の椅子たち』の190頁に詳しい。

② メキシコ・オリンピックのデザインはメキシコの建築家Pedro Ramirez Vazquezの指揮下でランス・ワイマンがグラフィックを行い、立体のサイン塔などはイギリス人の友人ピーター・マードックがデザインした。マードックについては拙著『20世紀の椅子たち』の248〜249参照。

3か月前