1967年 デザインの力アメリカが冷戦下のソ連に示したデザインの力

 タイトルを「デザインの力」とすると、ビジネスにおける力だと思われるかもしれないが、この年のデザインの力はそんなありきたりのものではない。
デザインがビジネスに活かされだしたのは1929年の大恐慌以降のアメリカで、経済恐慌からの脱出を目指し消費を喚起するためにモノづくりに表層的意匠が重視されたことが知られている。現在の日本でもデザインはモノづくりから販売促進にいたるビジネスの全ての段階で欠かせないものとなっている。
 デザインがビジネスに力を発揮するというのはデザインの力の一部で、そんな効用を考え出したのは近代になってからである。デザインは人類の歴史とともにある文化であり、その力は人間のアイデンティティとして存在し展開されてきた。
 この年のアメリカは、経済的繁栄の中にあったがベトナム戦争という難題を抱えていた。その反戦運動が世界的な広がりを見せたのは、10月になってお隣の国キューバで革命の英雄チェ・ゲバラの死も手伝っていた。キューバといえば、つい数年前の1962年「あわや核戦争か」という危機の発端となった国であり、危機こそ去ったが米ソの冷戦は続いていた。そんな状況下のソ連に対してアメリカが示した「デザインの力」は少しばかり特殊で、驚くなかれ「資本主義のプロパガンダ」のためにデザインの力が活かされたのである。
 あまたある日本のデザイン書のどこにも書かれていないから信じられないかもしれないが、冷戦下のソ連に対してアメリカが放った「デザイン爆弾」がこの年ソ連のキエフ、モスクワ、レニングラードを襲ったのである。「爆弾」としたのは私のレトリックで、アメリカ政府が仕組んだ「アメリカの工業デザイン展」という名の展覧会である。内容はタイトル通りであったが、その裏に透けて見えるのは「資本主義によるモノづくりはデザインの力で人間生活を豊かにする」というもの。当時のソ連の人々の考え方にどれほどの影響があったかについてはわからないが、あの一触即発の厳しい冷戦下にこんなことをやってのけるアメリカという国のしたたかさを知って驚愕した。
 企画したのはアメリカの政府機関の一つであるUSIA(米国文化情報局)①で、デザインなどは1959年のモスクワでのアメリカ博を担当したことからジョージ・ネルソンが行った。当時、在籍していたネルソン事務所で私の後ろの席にいたランス・ワイマンが時折ビートルズの曲を鼻歌交じりで口ずさみながら展覧会の小冊子をデザインしていた。できあがった 冊子はすべてロシア語で書かれていて読むことは できなかったが、内緒で一冊もらい持ち帰ったもの が今手元にある。おそらく日本にあるのはこの一冊 だけだろう。そこにはアメリカのデザイン教育からデ ザイナーの紹介などもあるが、19世紀末から20世紀 の初頭に造られた道具がデザインによってこんなに 素晴らしくなり人間の生活を豊かにする、ということ を写真で対比させながら紹介。資本主義の良さを それとなく伝えていた。アメリカ政府の思惑はこのあ たりにあったのではなかろうか。

 近代デザイン史の貴重な一ページであると思うの だが、日本では全く知られていない。こんな事実を取 り上げるのは私の偏見かもしれないが。  次に、この年巡り合ったもう一つの「デザインの 力」についても書くことにしよう。
 それはデザインの価値が金銭でいくらになるのか を定量化することの難しさである。
2025年にはまた大阪で万博だそうだが、この年 の春ニューヨークを発って二か月以上に及ぶ「ヨー ロッパ一日5ドル旅行」を経て羽田に着くなり1970年 に開催される大阪万博の協会に入ることにされて いた。協会にデザイン課を創設するということから海 外経験のある人間が適当とされたのである。課長 はいたがメンバーは私一人。当時の協会の役職者 は中央官庁と大阪府、市から来たお役人で構成さ れ、課員は役所からの若手もいたが、民間からは大 手企業の社員が一社に一人手弁当で派遣されて いた。
 大阪万博に関するデザインでは、なんといっても 全体計画から基幹施設の建築が最重要課題で、 丹下健三らが中心となって進められ、協会内部では 建築部という組織がこれにあたった。デザイン課で は建築部から漏れてしまったサインやストリート・ファ ニチュアなどを計画するのだが、お金(予算)がなけ ればどうすることもできなかった。
 仕事は予算を取ることから始まった。役人に予算 を認めてもらうためには「デザインの力」を説きなが らデザイン料の根拠を説明しなければならなかった。 問題はその根拠で、建築には施工費の何パーセン トという基準もあったが、デザインには決まりといった ものが何もなく、どんぶり勘定で始末されていて金額 の根拠など全くなかった。その上、サイン計画では実 際のデザインを導くための文章を中心とした計画の 冊子(今でいう企画書)づくりが外部へ依頼する仕 事の第一段階。この費用の根拠を示して金額を財 務課長(前職が当時の大蔵省の主計官)に要求す るのだから役所のしきたりなど全く知らない若造に できるわけもなかった。私自身さえいくらが適当なの かわからないことをどうして説明できるのか、どう考 えても無理なことであった。
 最後は、いろいろな人からのアドバイスを得て人 工計算(役所にはこれぐらいの人なら日当がいくらと いうきまりがあった)でデザイン企画書作成の予算を 通してもらったのだが、国際的イベントのデザイン料 を公式に予算化した最初ではなかったか。  さらに「成果品」という言葉も知った。依頼するデ ザインや企画書の量(ページ数など)をあらかじめ 先に想定して「成果品としてこれだけのものをお願 いする」としなければならなかった。依頼した業務を 受け取るときに整合性が求められたのだ。
 現在では役所がらみのデザインの企画書や実際 のデザイン料はどのように決められているのだろうか。 なんらかのルールができているのだろうか。  この年、カナダのモントリオールで万博が開催され ていた。ご多分にもれず協会からも視察と称して管 理職の人たちが行き、多くの資料を持ち帰った。そ の中に「サイン計画のマニュアル」があり、公式文字 が「ユニバース65」であることも知ったし、 今では考 えられない字間(文字と文字の間隔)までマニュア ル化されていて驚いたが、大阪万博でも「ユニバー ス65」を使うことになった。更に、モントリオール万博 では初めて「工業デザイン」というジャンルが存在感 を発揮したこともあげておこう②。
 モントリオール万博で圧倒的なデザインの力を見 せつけたのは、建築家を超えた建築家・バックミンス ター・フラー③がデザインしたアメリカ館である。曲率 半径が38mからなる「ジオ・デシックドーム」はパビリ オンの中でも異彩を放っていた。また、万博に関連し て建設された「ハビタット67」という集合住宅は、複 雑に組み合わされた住戸が庭を持ち大きなスケー ルで展開され、万博のデザインとともに話題となった。

①USIA(United States Information Agency,米国文化情報局)は1953年に設立されたアメリカと多国間のコミュニケーションを図り、教育・文化などの交流促進を目的としたアメリカ政府の独立機関。1999年に国務省に統合され国際情報計画局に引き継がれた。

② 『工芸ニュース』1967, Vol.35, 2に詳しい。

③ リチャード・バックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller, 1895 〜1983)はアメリカの思想家、デザイナー、建築家、詩人として多方面に活躍した巨人で、著書も多い。

4か月前