1965年 変わるニュー・バウハウス(IIT)の教育

 1965年
はきわめて個人的な話である。 この年の8月、羽田からパンナムの世界一周便で初めて日本を発ったが、DC8の機内で日本人を見かけることは難しかった。 イリノイ工科大学(IIT)へ留学するための飛行機の中でのことだが、現在のような直行便はなくシカゴまでの間にホノルルとサンフランシスコを経由したのは飛行機の能力上の理由。さらにニューヨークを経由したのは前年から開催されていたニューヨーク博をどうしても見ておきたかったからで、ここでも広い会場で日本人に出会うことは殆どなかった。 ニューヨーク博はアメリカ史上最大規模の万博で、前年からこの年まで2年にわたり開催されていてデザインについても書き出せばきりがない。詳しくは専門書に譲るが、当時の日本の状況からは言葉で表せないほどの経済格差のなか、只管スケールに圧倒されながら夢中でディズニー・アミュズメントの中を歩き回った。 だが、この年のアメリカはニューヨーク博に代表されるような経済的繁栄を謳歌する一方、ベトナム戦争が激化し、今回のテーマでもある教育の場に「ドラフト」(徴兵)という言葉が飛び交い、やがて大きな反戦運動になるはじまりの年でもあった。 シカゴの空港に着きゲートを出ると、見知らぬアメリカ人から突然「ヤマウチか?」と声をかけられ,拿捕されるようにダウンタウンのステーキハウスで見たこともない大きいステーキをご馳走になる。ニューヨーク博のスケールに続きこんなことまでやるアメリカという国に驚きながら翌日憧れのクラウンホールにおそるおそる足を踏み入れた。 ダブリン教授から個人的に授業の概要を聞いたのだが、その中に「コンピューター」という語彙がありわけがわからなかった。恥ずかしながら当時の私はデザインとコンピューターがどうにもつながらなかったからである。日本では「電子計算機」と呼ばれ、ようやく大企業で給料の計算などに使われはじめた頃。その後働くことになった当時のアメリカを代表するネルソン事務所ですら実務ではコンピューターの「コ」の字もなかった。 ここで50年代後半からの日本のデザインにとってアメリカという国がどういう関係にあったのか、そして留学先にどうしてIITを選んだのかについて触れておこう。 1945年の敗戦以来、日本は政治、経済から文化

 1945年の敗戦以来、日本は政治、経済から文化に至るまでアメリカの影響下にあり、私などの世代はアメリカの懐の中で育った。デザインも大学時代はアメリカからの情報で学んでいた。その一つにIITの教授ジェイ・ダブリンが日本の産業工芸試験所の招きで1959年の10月に来日し、半月にわたり当時の日本のデザイン・リーダーを対象に行った講習会があり、これに参加した非常勤講師から感動した話を聞き大きな影響を受けた。講習会の内容は雑誌『工芸ニュース』①に詳しいが、市場の問題からデザイン計画や戦略までレベルの高い内容の他に表現技術としてスケッチやペーパーモデルによるプレゼンテーションの方法もあった。学生としてはこれら実務の方に魅かれ、留学するなら「ミースのクラウンホールでダブリン教授の教えを受ける」という以外に選択肢はなかった。
 それからたったの5年余りで「コンピューター」である。授業が始まると戸惑いどころか苦闘の連続で、「デザインを学びに来たのに・・・」と面くらい、縹渺たる荒野に投げ出されたような気分になった。
 1937年にドイツからモホリ=ナジ・ラースローを招きシカゴで開校された「ニュー・バウハウス」は、28年の時を経てIITのID②(Institute of Design)と名前こそ変わったが世界で最初にコンピューターの理論をデザイン教育に活かそうとしたのである。「バウハウス」誕生時と同じように世界のデザイン教育にとって革新的出来事であった。教官は前年に修士課程を終えたばかりのチャールズ・オウエン③で、プログラミングの初歩的段階を含めコンピューターの論理的側面をデザイン方法論に活かそうとするもの。具体的な事例を一つあげておくと、プログラミングの初期段階でやるフローチャートを書かせて人間と機械の関係の分析に活かし、造形につなぐというものであった。ただ現在と違うのは、コンピューターにデータを入力するには穴をあけたパンチカードで行うので、クラウンホールの地下にパンチカードの穿孔機が持ち込まれた。当時まだ健在であったミースがやってきたら、「これはなんじゃ」と驚いたことだろう。
 だが、アメリカのデザイン教育が全てこんなことをやっていたのではなくIITのそれも学部の四年生と大学院のクラスだけで、一年生の課題内容はバウハウス時代と全く同じであった。さらに同じクラウンホールでも建築科の学生はミースのコピー(模型制作)に力を入れていたし、このころ日本からの留学が多かったアートセンタースクールではマーカーを使って、「いかにかっこいいスケッチを描くか」に力を注いでいた。
 アメリカのデザイン教育が日本と異なる点は、大学によりその目指すところや教育内容が違うことである。その典型がIITで、建築科ではミースの建築しか教えないから学期末の作品展では全てがミースのコピーで、日本では考えられないことであった。デザイン科でもダブリン教授の指示は絶対で「いやならいつでもよその大学へ行けばいい」というのだ。これには転学というシステムがあったことの他に、学科の教授は日本のように横並びではなく、教育の方向を決める「ディレクター」の存在があった。日本のデザイン教育のように大学によって目指す方向にそれほどの差がなく、画一的であったこととは全く異なっていた。
 そうはいっても、IITはIDのみならず建築科も世界に知られたデザイン教育の場。建築科にはミース教の本拠地として世界各国から若者がデザインを学びにやって来ていた。50年代にウイーンから来たハンス・ホライン④もその一人で、彼はこの年ウイーンの街の一角に宝石のように佇む「レッティ蝋燭店」をデザインした。これはウイーンの古い町並みの中にアルミ板を鍵穴のようなT字型にくりぬき厚紙細工のように貼り付けてファサードとした店舗で、細いエントランスから入る小さい店内は鏡を活かしディテールに細心の注意がはらわれた緊張感のあるデザインで、世界中のデザイナーに衝撃を与えた。
 二年後、この店を訪れ、買った丸い蝋燭を少しだけ灯し、垂れる蝋を活かして今もわが家の居間の棚に鎮座している。
 これ以後ホラインは宝石店などの商業施設をはじめ多くの建築プロジェクトを行う一方、「すべては建築である」(1968)と題する論文により時代の変わり目を示した。
 この年は「変わるアメリカ」として、IITのデザイン教育だけではなく建築界においてもようやく世代交代の波が押し寄せていた。ルイス・カーンが出世作となったソーク研究所を、チャルズ・ムーアが同じカリフォルニアの海岸にシーランチ・コンドミニアムを竣工させ、アメリカの建築界に新たな展開がはじまる年でもあった。

①1960年の1月号vol.28から3回にわたって詳細に紹介されたことは異例で、このころの日本のデザイン界にとって衝撃的なことであったかを物語る。尚、講習会にはダブリンだけではなく、シカゴでデザイン事務所を営むディブ・チャップマンも同行して講習を行った。日本のプロダクトデザインがアメリカから必死に学ぼうとしていたころのことである。

② IITのIDは「Institute of Design」の略で、日本では「デザイン研究所」と訳されている場合があるが、研究所ではなく、イリノイ工科大学の中でデザインを教育する独立した部門。

③ チャールズ・オーエン(Charles L. Owen)は1965年からIIT のデザイン教育に関わり、その後教授となりデザイン理論を中心に多くの学生を育てる一方論文も多い。1983年には学生とともに日本の国際デザイン交流協会の国際コンペでグランプリを獲得している。

④ ハンス・ホライン(Hans Hollein,1934〜2014)はオーストリアを代表する現代建築家。ウイーン応用美術大学教授を務め、1985年にはプリッカー賞を受賞。

8か月前