1964年 東京オリンピックその裏側,アメリカでの新たな胎動

(20世紀のデザインあれこれ85)
 聖火が点火され、グラウンドの周囲から鳩が一斉に飛び立つ。ただそれだけだった。
この年、東京で開催されたオリンピックの開会式のことである。私の座った席の前では市川崑が公式記録映画のために数人のスタッフとフィルムを回していたが。
 昨今のオリンピックの開会式は開催国の威信をかけたショーが「これでもか」と展開されるが、この年の開会式はシンプルでスポーツ競技の開会式はこの程度でいいのではないかと思う。が、近年のオリンピックは商業化し派手に派手にとブレーキがかからなくなってしまった。2020年の東京でもさぞや「これでもか」と繰り広げられることだろう。
 日本はオリンピックに対して異常なほど盛り上がる国で、東京で開催されるとなるとオリンピックに関わる人達の「思惑」も凄まじい。スポーツ界の利権やボスといわれる人たちの欲望が渦巻くのは「村社会」であるから仕方ないとしても、エンブレム・デザインでの盗用問題や競技場の建設などのごたごたはデザイナーのみならず選ぶ側やその周辺も「思惑」の塊でお粗末極まりない。戦後からの復興を目指していた頃は、人間の醜い思惑などあまり表に出る余地もないほど皆がただ一生懸命という「うぶ」な社会状況だった。
 1964年の東京オリンピックは開会式こそシンプルであったが、オリンピック関連のデザインはその後に開催されたどのオリンピックと比較しても遜色ないレベルの高いもので、日本の60年代のデザインを象徴していた。
建築関係では日本武道館をはじめオリンピック関連の建物が多く建設されたが、特筆すべきは丹下健三が設計した代々木の国立体育館である。構造は世界的にも例を見ない吊屋根構造を採用して鋼の張力とコンクリートの圧縮力を生かし、その内部空間は今見ても素晴らしく世界に誇る丹下の代表作である。
亀倉雄策が三年にわたってデザインしたエンブレムや写真によるポスターは力強さに満ち、とても半世紀以上前のデザインとは思えない。写真撮影に携わったスタッフやカメラマンの凄まじい苦労があったと聞くが、この時期のグラフィックデザインの傑作である。
 これらのデザインは丹下や亀倉の力量にほかならないのだが、彼らの周辺に現在のような下世話な思惑などなかったからだろう。

 思惑のなかった時代だからこそ私のような若造がたまたまデザインできたのが集火式での聖火台である。既に2020年のオリンピック聖火を日本中でどのように巡回させるかが議論になっているという。が、1964年の聖火も四つのコースを巡って開会式の前日に皇居前で聖火を集めることになった。その数か月前であったか、急遽聖火台が必要となり、友人を通して考えてくれと依頼されデザインしたのが集火式の聖火台(写真参照)。覆面でデザインしたためにこれが私のデザインであることは公になっていないが、皇居前ということで「かがり火」をイメージしてデザインしたことは若い日の懐かしい思い出である。
 この年、オリンピックに合わせて東京と大阪間に新幹線が走り出し、日本の鉄道開発と車両デザインにエポックとなったこともあげておこう。
 オリンピックで湧きかえっていた日本とは異なりアメリカでは実にいろいろなことがあって騒がしかった。造形美術やデザインに新たな胎動が見られるのもこの年である。
 その背景はアメリカ社会の経済的繁栄とその裏にあった「きしみ」である。公民権運動が活発化し、国外ではベトナム戦争が激しさを増すという難題を抱えて揺れていた。
 こんな状況を反映したかのように美術の世界では社会に対する批判精神を内包した「ポップアート」が花開く。その旗手ともいわれるアンディ・ウォホールが二年前に亡くなったアメリカのセックスシンボル、マリリン・モンローの肖像をシルクスクリーンという手法で発表し注目を集める。この年彼はニューヨークに「ファクトリー」と称するスタジオをつくり、アート・ワーカーを雇い作品の大量制作を始める。「彼の作品はアートか?」という議論もあるなかアートの概念を変え60年代のアメリカ美術の潮流となる。
 この年、世界の勝ち組として経済力と科学技術の進歩を世界に示したのがニューヨーク博で、翌年までの二年間にわたって開催された。会場には「マスタング」①という新たなデザインの車が脚光を浴びる一方、この年の2月7日ポップアート誕生の国イギリスからビートルズがアメリカへ初上陸。巷では若者がビートルズメロディを口ずさんでいた。
 デザインで世界中を驚かせたのは、ジョージ・ネルソンがデザインしたハーマンミラー社のオフィス・システム家具「アクション・オフィス」である。驚かせた要因は、モダンデザイン史上で誰も手をつけていなかったオフィス空間を、それも画期的なコンセプト②と斬新な造形で現したことであった。造形面ではアルミダイキャストによる脚部の斬新な造形をはじめ、「情報はデスクの抽斗にしまっておいても生きることはなく、いつも視野の中に置かなければ有効ではない」という視点からデスクの前方にファイルのボックスを取り付けたことなどオリジナリティに富む革新的デザイン。当時の日本で家具に関わるデザイナーの驚きは尋常ではなかった。
 残念ながら販売実績に結びつかず消えることになるのだが、オフィスで働く人間にとって一日の三分の一の時間を過ごす空間に焦点を当てたことは画期的なことであった。
 デザインでもう一つあげておかねばならないのは、ディヴィッド・ローランドが デ ザインした 椅 子「GF40/4」③である。名前に表れているように40脚もの椅子を4フィート(120センチ余り)の高さにスタッキングできる椅子で、椅子の歴史の中で誰も試みなかった細いスティールのロッドにより成立したもの。その革新性は「アクション・オフィス」と同様に当時のデザイナーを驚嘆させた④。この椅子を契機に細いスティールのロッドを使ったコピーが日本でも多く造られたのはアメリカだけではなく日本でも会議や講演会の場が急増したからで、これも60年代という時代の産物。二年後のことになるが、どうしても会って開発の話を聞いてみたくなりニューヨークの彼の事務所を訪れた時、事務所の棚という棚に「GF40/4」のモデルが並んでいたことに驚いた。たった一脚の椅子のためにこれだけの検討がなされたのか、と。
 最後にこの年の胎動のもう一つの側面をあげておこう。それは造形美術やデザイン活動だけではなく、それらのあり方や意味に加え方法論などが問われ始め書籍や雑誌のコラムが注目を集めたことである。紙幅がないので書名だけになるが、バーナード・ルドフスキーの『 建築家なしの建築 』⑤とクリストファー・アレグザンダーの『形の合成に関するノート』⑥である。イギリスではブルース・アーチャーが『デザイナーのためのシステマチックな方法』⑦を前年からデザイン誌にシリーズで著した。これはイギリスだけではなくアメリカや日本でも注目された。

① 「マスタング」は当時のフォード社の副社長であったリー・・アイアコッカ—が指揮して開発された中型車で、ニューヨーク博の初日にフォード館の前でデビュー。デザインがシンプルなスポーツカータイプで大ヒットしたが、デザインだけではなくユーザーのオプションを流れ作業の中で実現する生産方式を確立。日本のトヨタの「セリカ」(1970)の生産方式に影響を与えた。
② ハーマンミラー社では1960年にロバート・プロプスを迎え「リサーチ・コーポレイション」という組織を設置。「アクション・オフィス」のコンセプトはプロンプスが中心に作成された。「アクション・オフィス」の販売が振るわなかったためにプロンプスが「アクション・オフィスⅡ」をデザインする。
③ 拙著『20世紀の椅子たち』252〜255頁参照。
④ 現在の若い人にとっては「なにが凄いのか」と不思議に思うのかもしれないが、2年後のネルソン事務所のハーマンミラーチームでも「やられた」と残念がった記憶があるほど当時としては革新的であった。世界各地でデザイン賞を受賞する。ローランドは生涯この一脚に掛けたデザイナー。
⑤ バーナード・ルドフスキー(Barnard Rudofsky, 1905〜88)は著述家で建築家。1940年ごろからニューヨーク近代美術館でいくつかの展覧会を企画。『建築家なしの建築』(渡辺武信訳、SD選書) は同名の展覧会がニューヨーク近代美術館で開催された展覧会のカタログ。ルドフスキーは多くの国の風土的建築や集落を調査。「風土的」「無名の」「自然発生的」「土着的」「田園的」という5つのキーワードによりこれらの中に近代建築の要素を見つけ出した。
⑥ クリストファー・アレグザンダー(Christopher Alexander,1936 〜)はウイーン出身でアメリカで学びカリフォルニア大学バークレー校の教授で建築から都市計画の理論家として活躍。著作には『形の合成に関するノート』(英語名はNotes on the Synthesis of Form で稲葉武司訳、SD選書)をはじめ『パターン・ランゲージ』がある。
⑦ イギリスの『design』誌への一回目の掲載は1963年の4月号で、掲載された原名は「Systematic method for designers 」。著者ブルース・アーチャー(L. Bruce Archer1922〜2005)は英国のメカニカルエンジニアで、後年はロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)の教授としてデザインの理論面で活躍する。

9か月前