1963年 高度経済成長の陰で咲いたあだ花

(20世紀のデザインあれこれ84)
 タイトルに「あだ花」というような一言を入れると、この年の11月22日にアメリカのダラスで起こったケネディ大統領暗殺事件のことか、と思われたかもしれない。
 前年に起こったキューバ危機であわや世界核戦争か、という出来事と合わせてこの年世界を震撼させたニュースであった。
 だが、「あだ花」などといえばを顰蹙を買いそうだが、この年の4月25日に大阪のど真ん中に「あだ花」が咲いたのだ。
 「あだ花」とは大阪駅前にできた大歩道橋である。「日本初」①というふれこみもあったが、
 なんとも醜く、都市景観上あり得ないものが、それも大阪の顔ともいえる大阪駅前に出現したのである。できた要因は交通事故の軽減と交通渋滞の緩和であったという。そして松下幸之助が建設費を負担したということから「さすが松下さん」ということもあって大阪人の感覚を麻痺させた。 なにがなんでも高度経済成長へと歩みを進めていた日本では価値基準が狂ってしまっていたのだろう。「車をスイスイ走らせるために人間は階段を登って道路を渡れ」、「年寄りや障害者は大阪・梅田に来る必要はない」という発想は理解しがたいものである。経済第一主義がこんな発想をまかり通らせた時代であった。このコラムで「デザインは時代表現だ」と言ってきたが、歩道橋はまさに「時代の産物で、時代が生んだ負のデザイン」である。
 パリのシャンゼリゼやニューヨークの五番街に歩道橋をつくると言えば、論争どころか暴動になるだろう。
 挙げ句4月25日を「歩道橋の日」としたのにはあきれかえった。さすがに東京の中心部には造られなかったが、これ以後歩道橋を造ることが「はやり」となり、その波は地方都市にも広がっていった。
 80年代から一年に二度集中講義に行っていた信州の上田市。街の中心である上田駅からメインストリートを300mほど行ったところにT字路があり、たかだか幅が5メートルほどの道路に歩道橋がかけられていた。その設置の仕方が地域住民を無視していて驚愕した。写真を見てもらいたいが、それまで自転車に乗って走れていた歩道が歩道橋の階段のためにすぐ横の店舗との間が狭くなり、人一人通ることさえ窮屈になっていた。「なにがなんでも歩道橋を造る」という発想である。15年ぐらい上田に通い続けたが、私は一度も歩道橋を渡ることなく路上を横断していた。授業で「デザインとはなにか」を説明するのに「あの歩道橋を撤去することがデザインである」などと学生にアジったこともあった。
 80年代のことであったと思うが、大阪市から「都市景観委員」を委嘱され、大阪で都市景観上優れた建築を選ぶという役割を仰せつかった。審査が一段落したところで、「大阪の都市景観を考えていくのであれば、最初にやるべきことは大阪駅前の歩道橋を撤去すべき」と言ったら、翌年委員をクビになってしまった。また、大阪の財界人のセミナーに招かれ話を
する機会にもスライドを使って訴えると、「気が付かなかった」、「よく理解できた」などの答えが返ってきたが、その後彼らが撤去に動いたという話は聞かない。
 歩道橋の存在自体が人間無視の象徴なのだが、都市景観上からも特に下面は醜い限りである。構築物をデザインするとき、対象の平面や側面を検討して図面化するが裏側のデザインまでは考慮しい。地上レベルからの人間の目線など考慮されることもない。今や大阪駅と阪急百貨店の間は大量の
人が路上を歩いて渡るようになっているし、地下街もある。必要がなくなった歩道橋を撤去できないのは巨額の費用が理由と聞いていた。これぞ1963年の大阪に咲いた「あだ花」である。
 ところが、どうしても「負の遺産」を残したいらしく、今年「阪急阪神連絡デッキ新歩道橋」という名前まで付けて大幅に改装された。汚い階段のいくつかが撤去されたのはいいが、夜には手すりに照明まで入れ雪国でもないのに二つの百貨店を二階でつなぐという発想にはひっくり返った②。これで当分撤去されることもなく、大阪の象徴(商売の街)として残ることになったのはまさに「景観より商売」なのだ。残念だが、これも「大阪」なのだろう。

 この年のデザインとして歩道橋をとりあげたが、モノではソニーのラジオやポータブルテレビに代表されるように「小さくても高品質」というのが日本のモノづくりのテーマとなっていた。カメラでは60年代初頭から「ハーフサイズ」という通常36枚の写真が撮れるフィルムを半分の大きさで倍の72枚の写真が写せるカメラがヒットし、この年その代表格「オリンパス・ペン」の一眼レフまで発売された。高度経済成長期の中にあって、まだまだ「節約」の精神が日本人の中にあった証である。
 またこのころ、デザイン振興を目的にデザインコンクールやコンペティションが盛んにおこなわれた。工業デザインでは毎日新聞社が主催した通称「毎日コンペ」を筆頭に、機械や雑貨のデザインセンターが個別にコンクールを実施し若いデザイナーの登竜門となっていた。家具の分野でも1961年から天童木工が丹下健三らを審査員に迎えてコンペを実施。若手だけではなくプロの建築家やデザイナーも応募した。
 コンペといえば、この年イギリスの新聞社・デイリー・ミラーが主催した国際デザインコンペが開催され、もう一つの大きな「あだ花」が咲いた。咲かせたのはデンマークの女性デザイナー・グレーテ・ヤルク③である。
 辞書によると「あだ花とは、咲いても実を結ばず散る花」という意味もあるから「あだ花」としたのだが、このコンペは20世紀のデザインコンペの中でも桁外れのスケールで歴史に残るもの。私など審査員がチャールス・イームズやアルネ・ヤコブセンであったというだけで興奮した。テーマが「男と女の一組の椅子」というユニークなもので、一等賞金が当時の日本円で200万円以上の大金であった。私の月給が1万5000円ぐらいの時だから10年分の金額。「これで留学資金ができる」と前年にイタリアのコンペで受賞した勢いだけで応募したが見事に落選。審査結果を見て、一等賞となったヤルクの成型合板の使い方に舌を巻き脱帽した。しかしヤルクの案は試作まで完璧にできていたが製品化されることはなかった。「残念」の一語で、まさにあだ花になってしまった。後
年彼女にはデンマークの雑誌『mobilia』の視察団の団長として来日した時やコペンハーゲンで会ったが、自然とこの年のコンペの話題になり、「あの賞金
はありがたかった」と笑顔で言う彼女の話から、製品化されなかった理由には秘められた「男と女の物語」があったことを知った。
 しかし製品化には技術面で難しい面があったことも事実で、結局彼女はもう少し簡易な成型合板の使い方からこの年「GJチェア」という椅子を世に送り出した。
 2025年には大阪で「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマで万博が開催されることになった。テーマは漠としてわかりにくいが、推察すると高齢者や障害者を拒否するというものではないらしい。巨額の費用を使って誘致活動を行った人たちの中に
「大阪駅前をテーマにふさわしい場にする」という発想はおこらないものだろうか。胸を張って海外からのお客様を大阪に迎えるためにも。

① 大阪駅前に歩道橋ができた当時は日本初とされたが、実は愛知県の西枇杷島町に1959年の6月27日に歩道橋が完成していたが、2010年に撤去された。

② 海外でも積雪のある都市では、路上が雪で歩けないのでビル2階から道を隔てたビル2階をデッキにつなぐことはある。

③ グレーテ・ヤルク(Grete Jalk,1920〜 2006 )や「GJチェア」については、拙著『20世紀の椅子たち』240〜243頁参照。

10か月前