1962年 空港のデザインに二つの時代の波

(20世紀のデザインあれこれ83)
 ヨーロッパの鉄道駅舎に「別れ」の鮮烈な印象を重ねるのは、ヴィットリア・デ・シーカ監督の映画『終着駅』(1953)でのラストシーンである。舞台となったローマのテルミニ駅に行ってみたくなり、ミラノから汽車に飛び乗ったのは1967年のことであった。
 空港の話の前に、ヨーロッパの鉄道駅舎のデザインにも少しだけ触れておこう。
テルミ二駅だけではなく、1920年代中ごろからのファシズム政権下で多くのイタリアの鉄道駅舎をデザインしたのは建築家アンジョロ・マッツォーニ①である。35年以後、駅舎の建築をはじめ諸施設や家具にいたるまでトータルにデザインしたことは特筆すべきことで、新たなデザインの方向を目指していた当時のイタリアを彷彿とさせる。
 ところが60年代になると、50年代末からのジェット旅客機の発達②により人間の移動手段として飛行機が脚光を浴びることになる。なかでもアメリカで飛行機での人の往来が増えると、新たな空港が建設されだすのは自然の成り行きで空港建設に大きな波がやって来た。そんな状況下、この年アメリカにこれまでの物差しにない凄いデザインの空港が二つも出現し建築界を驚嘆させた。デザインしたのは建築家のエーロ・サーリネンで、二つの空港とはニューヨーク・ケネディ空港のTWAターミナルビル③(以後TWAとする)とワシントンのダレス国際空港である。
 なにより驚くことは、一人の建築家が全く異なるコンセプトで二つの画期的な空港のターミナルビルをそれもほぼ同時期にデザインしたことで、今では考えることすらできない。これも時代のなせる「業」かと思うが、いやいやサーリネンの力量なのだ。建築はもちろん空港としてのサイン、レストランなどの施設からその家具(椅子はもちろんチューリップチェア)まで空港のターミナルビルの全てを、それも誰にもがまねのできない凄い造形で一人の建築家がデザインしたのである。
 その一つ、TWAに話を移すとしよう。これを一言で言い表すなら「建築的スケールの彫刻」であろう。それほど建築全体の造形が彫刻的なのである。そしてなにより内部空間が美しい。そこには名作彫刻の周囲と同じ空気が漂い、よくぞこんな造形ができたものとただただ驚くばかりである。
内部空間には直線部分がなく、制作図をCADで描く現在では作図することさえ難しい。床から生え出たようなインフォーメーション・サインやその前のカウンターなどの造形を実現させたのは日本の白いモザイクタイルであったという。が、そのデザインは大胆で優美なもの。さらにその奥の待合コーナーの赤いカーペットに赤いソファはその造形とともに当時の私にとって衝撃以外のなにもでもなかった。どうしてこんなデザインが公共施設で可能だったのだろうか。それはこの時期の飛行機を利用する人の多くが着飾った紳士淑女であったからで、ホテルのロビーと同様の感覚だったのだ。現在では考えられないデザインである。
さらに、この建物の特徴は「デザインの一貫性」である、と当時サーリネン事務所に在席しこのプロジェクトにも関わった穂積信夫が言う。そしてサーリネン自身の言葉として次のような一文を紹介している。「建築のデザインというものは、全体の形から内部のどんな小さなディテールにいたるまで一貫したデザインの雰囲気で貫き通さなくては、人の心にせまるような迫力は得られない」④と。サーリネンらしい言説だが、同時代に活躍した日本の建築家でディテールにもこだわった村野藤吾もTWAのディテールを称賛している。
 当時のTWAを見たかのように書いてきたのは、ニューヨークで生活していた昔、することもない日曜日の午後に半日かけてTWAを隅から隅まで見て歩いたからである。夕空が赤く染まりかけたころ、満足感に浸りながら2階のコーヒーショップでチューリップチェアに腰をおろすと隣の席の上品な老夫婦がにっこり微笑み返してきた。60年代半ばの良きアメリカ社会の光景であった。

 一方、ワシントン・ダレス国際空港はTWAとは全く異なるコンセプトによる革新的デザインの空港ビルである。構造は外側に張り出した柱に掛けた逆シリンダーのシェルで巨大な内部空間をつくりだし、柱間には折り曲げられたガラスの構成も美しい。建築自体が革新的なのだが、空港ビルのシステムとしてアッと驚くものである。それはターミナルビルに吸い付いた移動待合室である。多くの飛行機をターミナルビルに接近させるにはターミナルビルが巨大化せざるを得ない上に、飛行機の出入り口に接続するアプローチ誘導路が取りつくのが今日でも一般的である。サーリネンはこんな様式を変えたかったのだろう。空港ビルをコンパクトにまとめるために搭乗ゲイトから離れた場所に駐機する飛行機まで移動する待合室を走らせたのだ。移動待合室は簡単に言えば「バス」なのだが、建物にきっちり接続され建物側のゲイトからはバスとはわからない。この車体などはGM⑤の協力があってのことだが、その内部はサーリネンの造形ボキャブラリーで満たされていた。
 この空港を見るためだけにニューヨークから一日かけて行った日は、たまたまなのか旅客が一人もいないという異常な光景に出くわし、竣工直後の空港に一人招かれた気分になり興奮した。この空港のためにサーリネンが唯一他者に依頼したのがベンチのデザインで、依頼されたかつてのクランブルック時代の級友・チャールズ・イームズが20世紀の空港ベンチの傑作「タンデムシーティング」を誕生させた。訪れた日はそのベンチには誰も座ってはいなかった。(写真参照)
 だが、これらの空港に津波のような波がやって来るのに永くはかからなかった。70年代になるとジャンボ機の登場により空の旅の「大衆化時代」がやって来たのだ。80年代になると運賃も格安になりアメリカ人の移動手段はグレイファウンドバスから飛行機に移行。21世紀になると世界中の空港は巨大化し、内部空間は商業化し、大がかりで装飾的なデザインが横行。まったく趣を変えることになる。
当然TWAは10年余りで機能不全となり、あの美しい空間が多くの乗客であふれ、めちゃくちゃになったのを見た時は言葉を失った。その中で、障害者のために設置されたスロープは仕方がなかったとしても、なにか工夫がなかったのだろうか。サーリネンが生きておれば別の案を提示したか、「つぶせ」と叫んだかもしれない。
 建築が外部条件によってこれほど急激に機能不全になるのは、空港という休まず運行しなければならないという特殊性である。が、寂しい限りであった。空港では鉄道駅舎のような人間ドラマが生まれる余地はないが、60年代の空港には「優雅さ」があった。
 旅客の服装が、着飾ったものからジーンズへと変わったことが全てを物語る。
 最後に、これも偶然が重なったのか、この年国産の旅客機「YS-11」が初飛行を行ったことも書き加えておこう。

① アンジョロ・マッツォーニ(Angiolo Mazzoni、1894~1979)はイタリア・ファシスト政権化の建築家で、1920年代から郵便局や鉄道駅舎など多くの建築の設計をした。

② この時期に開発された代表的4発ジェット旅客機はボーイング707(1957年初飛行)とダグラスDC-8(1958年初飛行)で、いずれも乗客数は120~200名と多くの乗客を収容させることが可能となった。

③ 当時のニューヨークのケネディ空港は広大な敷地にいくつものターミナルビルがあり、アメリカの航空会社は個別にターミナルビルを持っていた。当時アメリカ視察と称して渡米したデザイナーが「ケネディ空港にTWAのビルはなかった」と帰国して言ったが、TWAの飛行機に乗らなければ見ることなどできなかった。

④ 『SPACE MODULATOR』日本板硝子が発行する冊子のNO.13、1963

⑤ GMは、ゼネラルモータースというアメリカ最大の自動車会社で、ミシガン州にある「GMのテクニカルセンター」(1955)はサーリネンの出世作である。

11か月前