1960年 日本の「デザイン元年」—国際市場への足がかり

(20世紀のデザインあれこれ81)
 1960年の日本がどんな年であったのかを一言で言えば、60年安保闘争で「騒がしかった」ということになるだろう。安保改定を義挙とする総理大臣岸信介に対し、連日国会周辺を占拠したデモ隊の激しさに加え彼らの「岸を倒せ」の怒号が今も耳に残る。
 6月になって岸内閣が総辞職し、かつて「貧乏人は麦を食え」の発言で物議をかもした池田勇人が「所得倍増論」を引っ提げて総理大臣になり、日本の高度成長がスタートした。
 ここで書くべきは、日本のデザインが経済成長と同調して展開したことで、1960年のタイトルを「デザイン元年」としたのは、それなりのわけがあってのことである。
 日本には年代を表すのに元号と西暦の二つがあり実にややこしい。「デザイン元年」が西暦の1960年という60年代の初めの年であったのは偶然で、この年カタカナによる「デザイン」がようやく社会で通用し始めた年であったのだ。
 この年まで、カタカナの「デザイン」という用語は専門家の間では使われてはいたが、一般社会では女性の「服飾デザイン」を意味することが多かった。今では考えられないだろうが、女性の服装に既製服がそれほどなかった時代。服は「買う」のではなく「作る」時代で、大阪でも洋裁学校が多くあり女性は服のつくり方を学ぶと同時にデザインをしていた。現在の「デザイン」を意味する用語は「意匠」と言われることも多く、国立大学の学科名やあの松下電器のデザイン部門名ですら「意匠」が使われていたことがそのあたりの事情を物語る。「意匠」を「衣装」と間違えられることもあったし、グラフィックや繊維などのデザインでは「図案」という表現が多用されていた。
 この年、カタカナの「デザイン」が一般にも通用し始めた要因の一つは、安保騒動で荒れていた5月11日から6日間にわたり日本で最初の「世界デザイン会議(WoDeCo)」①が東京・大手町の産経会館で開催されたことである。世界24か国から227名の参加があり、建築からグラフィックにいたるジャンルを超えたデザイナーが60年代以後のデザインのあり方について語り会った。通常この種のイベントはやっている人間が「開催すること」に意義を見出すのだが、この会議は社会に対してカタカナの「デザイン」が通用するきっかけになったことで、「デザイン元年」にふさわしいイベントであったといえる。
 この年を「デザイン元年」とするより大きな理由は、デザインを伴って日本のモノ(製品)がアメリカを中心に世界に進出しはじめた年であったことである。輸出立国の日本では50年代末から輸出を目指してモノの質と意匠に注力して多くの工業製品が造られはじめた。世間では「意匠」であっても、呼び方などはどうでもよく、世界に進出を目論む企業では製品の質に加え「デザイン」も避けて通れなかったのである。

 

 60年代になって世界に羽ばたいた一番手は、1958年に造られたホンダの「スーパ−カブ」である。この年アメリカに上陸。以後「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」などによりアメリカで知名度を上げていったことは1958年のところで既に書いた。戦勝国で「自分達が世界で一番」と考え、経済が絶好調のアメリカで「かっこいい人はホンダに乗る」とはよくぞ言ったもので、このコピーは痛快の極みであった。
 次はソニーのトランジスタによる製品で、二年前に発売されたラジオ「TR−610」に続きこの年発売されたポータブルテレビ「TV8−301」②はアメリカ人をひっくり返らせた。いやいや、自信過剰でイカれたアメリカ人もいて、1965年のことだが「ソニーはアメリカの企業だろ」と真顔で言う人間がいたのにはこっちがひっくり返った。こんなものを日本が造れるわけがないと思ったからである。このテレビをデザインしたのはソニーのデザイナー斎藤正で、彼は前年の新日本工業デザインコンペ(毎日コンペ)③で特選1席を獲得し、当時のソニーのデザインを牽引していた。余談になるが、この年の夏、東京・五反田の工場にあったデザイン室で実習する機会があり、斎藤正のデザインプロセスを間近で接し刺激を受けたことを想い出す。
 この年から数年後の1965年、シカゴでの学生生活ではコンピューターの理論を使った授業にめんくらい苦闘したが、ソニーをはじめとする日本のデザインにはアメリカ人も一目置くようになっていた。因みに、教授のジェイ・ダブリンが著書『One Hundred Great  Product Design』で日本の工業製品の中で唯一ソニーのトランジスタテレビ「TV8−301」を採りあげ評価した。
 次に「ニコンF」で、二年前に発売されアメリカに進出するが、品質、自動化、多機能性を備えたプロのカメラマンが使う超高級機として一般人には縁遠いカメラとなる。デザインしたのはグラフィックデザイナーの亀倉雄策であったというから驚くが。
 当時のアメリカ人のカメラに対する価値観は「写真が写りさえすればいい」というもので、コダックの「インスタマチック」というおもちゃのようなカメラが一般的であった。そんなところへ敗戦国の日本から来た留学生の私が「ニコンF」を持っていたのだから同級生は仰天した。私とて留学という一大事業にせめてカメラぐらいと考え、数か月分の給料を投げうって買ったのだが、アメリカ人には理解の外であった。このころは自国に市場がなければモノは育たなかった時代で、カメラは日本人にとって持ちたい「一点豪華主義」の象徴であった。
 続いて「時計はスイス」という決まり文句を覆したのが「SEIKO」で、低価格で精度のよい「SEIKO」はアメリカだけではなくヨーロッパにまで浸透した。留学から帰国途中のイタリアで「SEIKOを持っていれば、売ってくれ」とせがまれたこともあった。
 かつて「メイド・イン・ジャパン」と印されたモノのデザインが盗用であると騒がれたのがほんの数年前。それを受けて前年の1959年には「輸出品デザイン法」ができ輸出品のデザインに関してさまざまなルールが決められた。しかしながら、こんな騒動などどこ吹く風と日本企業の「ブランド名」がアメリカ市場に進出し始めたのがこの年である。
 一方、海外へのモノだけではなかったことも挙げておこう。この年「ジャパニーズ・モダン」を提唱した剣持勇の「籐の丸い椅子」や長大作の「低座椅子」といった日本ならではのデザインの椅子が誕生したことも「デザイン元年」にふさわしい出来事であった④。
 最後に「デザイン元年」らしい事象をもう一つ挙げておくと、デザイン振興が地方都市にも及び、大阪商工会議所会頭・杉道助の尽力によってこの年「大阪デザインハウス」が設立された。その後「大阪デザインセンター」(1971)と改称され、現在では当初の役割を終えたが、60年代から70年代の大阪の経済発展にモノづくりの視点から貢献した。
 モノづくりだけではなく、建築からグラフィックまでの全ての領域で、日本の「デザイン」はこの年を起点とした経済成長とともに新たな歩みを始めたのである。

① 正式名称はWorld Design Conference(略してWoDeCoであったが、関係者の間ではウォーデコと言っていた)である。紙幅の都合で詳細を省略したが、『日本デザイン史』美術出版社、2003や『日本の近代デザイン運動史』財団法人工芸財団、1990、ペリカン社、を参照されたい。

② 世界初のトランジスタによるポータブルテレビの性能とデザインについてデザインした斎藤正が『工芸ニュース』(Vol 28-2 )に記している。

③ 1952年に創設され、その後毎日新聞が主催していることから「毎日コンペ」と呼ばれ、工業デザインを志す人間にとっての登竜門となったコンペであった。

④ 拙著『20世紀の椅子たち』の220〜227頁参照。

11か月前