1959年 家にテレビがやって来た-変わりだす住空間

(20世紀のデザインあれこれ80)
 1959年4月10日、多くの日本の家にテレビがやって来た。
 家電元年から6年、折からの「岩戸景気」という好調な経済にも支えられてのことだが、この日皇太子殿下のご成婚のパレードを見るために多くの日本の家庭ではテレビを買い求め、登録台数が一挙に400万台にもなったという。
 テレビといっても、今のように薄いカラーテレビではなく、箱型で図体の大きさの割には画面が14インチと小さく、画面の色は黒白であった。価格は家庭の平均年収の半分ぐらいもしたのだが「月賦」という制度も手伝って普及した。  当時「家にテレビがやって来る」ということは、どういうことだったのか。スペースがそれほど十分でない生活空間にとんでもないパワーを持った主役がやって来たのだから、空間の在り方から家族の団らんにまで変革をもたらした。テレビの設置位置によって家具の配置が決まり、コミュニケーションのあり方まで左右されたのである。
 テレビの普及もさることながら、この年は住まいに関してプレファブの子供部屋や高層の公団住宅ができ、さらに若手建築家による建築運動(メタポリズム)①が芽生えていた。 50年代の締めくくりの年として、このころの住宅事情について振り返ることにしよう。

 戦後、焦土と化した日本では420万戸もの住宅が不足していた。建築家はこの課題を解決するには住宅の量産が必要であるとして、工業化によるプレファブ住宅の開発に力を入れた。代表的なものに前川国男が設計した「プリモス」などがある。詳しくは専門書に譲るとして、プレファブ住宅を低価格にするためには「量」が必要で、そのための物資や流通などの問題からプレファブ住宅の開発は50年代になって一旦姿を消すことになる。
 ところがこの年、50年代も終わりになって、後に「団塊の世代」ともいわれる子供の増加が顕在化する。これは1949年ごろからのベビーブームによるもので、手狭になった住宅、子供部屋がないという情況に大和ハウス工業が11万円程度の価格で3時間で組み立てられる「ミゼットハウス」を発表。「商品」となった子供部屋は百貨店でも展示・販売された。いま見れば単なる物置小屋に見えるが、同社の記録によれば、小さいながらも「子どもの家」として当時あこがれの欧米の暮らしを連想させる両開き窓などデザインにも考慮したとある。この「ミゼットハウス」は大ヒットし、プレファブ住宅の原点となる。60年代の中ごろからは高度経済成長の波に乗り、異業種までがプレファブ住宅づくりに参入。建設業とは別に住宅産業が生まれ日本の住宅づくりの一翼を担うことになる。
 プレファブ工法とは別に、建築家は40年代から在来工法による住宅にも数々の提案や懸賞競技(コンペ)などにより戦後の住宅問題の解決に取り組んだ。
 彼らが目指したキーワードは「最小限」で、1947年には「12坪木造国民住宅」の懸賞競技に続いて15坪のコンペなども開催され、小さいながらも床座から椅子座に変わる空間が多く提案された。このころの住宅コンペでは設計条件もあったが、戦後の日本人の生活にとってのあるべき住宅を模索していた。これには1947年に出版された西山夘三の『これからのすまい』(相模書房刊)の影響があったことは明らかである。
 20世紀を彩った建築家であるフランク・ロイド・ライトやミース・ファン・デル・ローエにル・コルビュジェらがそろって住宅の名作を残したように、住宅は建築家の考え方を実現する格好のプロジェクトである。これまで書いてきた戦後の住宅問題を解決するための庶民の住宅ではないが、前年の1958年に菊竹清則が自邸「スカイハウス」を設計。これは4本のRC造(鉄筋コンクリート造)の壁柱に支えられた一辺が約10mの宙に浮いたような空間が中心で、それ以外は改変可能とする考え方。この年に若手の建築家グループが提案した「メタポリズム」につながるものとして注目された。
 もう一つ50年代の日本の住まいを考えるうえで避けて通れないのが集合住宅である。50年代になると、未だ十分でない都市の住宅事情に加え地方から都市への人口流入による住宅不足が深刻化。このために1955年に日本住宅公団(2004年に都市再生機構に移管)が設立され、RC造の集合住宅(通称・公団住宅)が建設され、日本中に「団地」というニュータウンが誕生した。政治の世界では「55年体制」と言われる時期である。
 間取りについていえば、これより前の1951年に公営住宅標準設計の一つの形として「51C型」②と名付けられた間取りが提唱され、そこには「ダイニングキッチン(DK)」という名の食事をつくることと食べることが一つになった新たな空間が出現し、通称「2DK」という住空間が誕生した。ダイニングキッチンいう空間は一見かっこよさそうだが、キッチン部分を除くと食卓と椅子4脚がやっとおける程度であった。それでも「食堂セット」という洋家具(脚もの家具)を必要とし、家具業界が活気づく契機となる。
 だが、キッチンの流しや調理台はなんとか機能を満たす程度で、30年以上も前の1926年にドイツの集合住宅で生まれた通称「フランクフルト・キッチン」③のようなシステム的な統一感のあるものでなかった。それというのも、キッチン周りは機能が満足しただけで十分という時代で、デザインにまで力が回らなかったころのことである。
 それでも翌年には入居が開始され、入居第1号の大阪・堺の金岡団地の家賃は2DKで月4,600円、入居資格は月収2万5000円以上であったというから相当の高収入者(当時のサラリーマンの課長級)でないと入居できなかった。
 この年、住宅公団は前川国男の設計で日本初のエレベーターがついた高層(10階)の「晴海高層アパート」をつくり、3階ごとにエレベーターを停止させ、上下階に振り分けるスキップフロアー方式を採用。廊下にはアルコーブ状の広いスペースが設けられベンチや電話が備わった都市の街路のような空間もあり、高層アパートの先駆的なものとなった。
 公団住宅には賃貸と分譲があったが、戸建て住宅も含め庶民が家を買うことは大変なことであった。テレビが「月賦」という制度で普及したように、庶民が住宅をなんとか無理して購入できるようになったのは、1950年に政府が住宅金融公庫(2007年に廃止)を設立し、住宅資金を低利で借り入れることができるようになったことも大きかった。
 住宅に焦点を当てたこの年の建築事情であったが、住宅以外では日本建築史に残る傑作・香川県庁舎(前年に竣工)を設計した丹下健三が日本の60年代の建築デザインを牽引する。一方、ル・コルビュジェの設計になる国立西洋美術館(世界遺産)が東京・上野に竣工しこの年の6月に開館。アメリカでは、住宅建築からスタートし多くの住宅と名作・落水荘を設計したフランク・ロイド・ライトがニューヨークでの遺作「グッゲンハイム美術館」の竣工直前の4月に他界した。

① この年に黒川紀章や菊竹清訓らの若手の建築家がはじめた建築運動。グループ名を「メタポリズム(新陳代謝)」とし、社会の変化や人口増加に合わせて都市や建築は有機的に成長しなければならないとして、提案活動などを行った。

② 戦後の住宅不足を解決するために、政府が公営住宅の水準を標準化するため建築設計管理協会に設計を委託。51年に東京大学の吉武泰水の案が採択されたが、大きさが三つあり最も小さなC案を「51C」という。この案の中で「ダイニングキッチン」という空間が生まれた。

③ 第一次世界大戦で住宅不足に陥ったドイツで、1926年にマルガレーテ・シュッテ・リホツキーが集合住宅のためにデザインした台所である。効率化の上に初めて統一感を持ち込み、システムキッチンの先駆けともいわれている。

1年前