1958年 その2ビジネスモデルをつくりだしたデザイン

(20世紀のデザインあれこれ79)
今月は異例で、先月に続き1958年です。その2としたのは、テーマが少し異なるからです。
 1966年の夏、ベトナム戦争が激しさを増すなか、ニューヨークのマンハッタンを歩けば電気店から流れるメロディはフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」と決まっていた。その五番街、航空会社のオフィスではチャールズ・イームズの「アルミナムグループ」という椅子がひときわ光彩を放っていたが、同じというものは二つとなかった。記念碑的なものを生んだ1958年であるが、もう一つどうしても取り上げなければならないデザインがアルミナムグループである。イームズの椅子といえば、誰もがFRPのシェルチェアをあげるであろうが、アルミナムグループはアメリカ・ミッドセンチュリーのイームズの傑作。だが、日本でこの椅子をよく知る人でも「どうしてそんなに凄いデザインなのか?」と首をかしげるだろう①。ましてやモノの造形面にしか注目しないデザイン研究者はこの椅子を評価するのは無理である。 1958年といえば、個人的な話になるが、冬は部屋の真ん中に小さな石炭ストーブが一つあるだけの木造校舎で、夏にはクーラーなどあるわけもなく汗が図面の上に滴り落ちる中でデザインを学んでいた。そんなある日、海外の雑誌を見て驚嘆したのがアルミナムグループで、アルミのダイキャストという製法とその大きさに「こんなことが可能なのか」と。だが、この椅子はそんな造形上の特色だけでかたづけられるものではなかった。 シカゴでの学生時代、ハーマンミラー社の工場を見学した時でさえこのことには気付いてはいなかった。この椅子の真価を知ったのは、その後勤めることになったジョージ・ネルソン事務所でのこと。入所するなり与えられた仕事は、ネルソン事務所が一年前の1957年にデザインした「CSS」という収納家具を見直す課題で、チームリーダーから見せられたハーマンミラー社の「販売レポート」に仰天した。驚きは、レポートにある販売実績が必ずしも製品の販売数だけではなかったことで、アルミナムグループがパーツを組み立て個別の物件に対応するカスタマイズ化を可能にした椅子であったことだ。また、こんな企業のマル秘情報を私のような海外からの若造まで見ることができたことにも②。 驚いたことをもう一つ書き加えておくと、当時の日本企業ではやっと給与計算などに電子計算機(コンピューターとは言ってはいなかった)を活かし始めた頃。ハーマンミラー社の工場ではビスなどの生産用の部品がコンピューターで管理され、部品の異なる大きさがマトリックス状に7桁の数字で表された一覧表になっていて、制作図面を描いたときにはその表から適当な部品の数字を書き入れることに愕然とした。

 アルミナムグループはフレームが4種類③、肘の有無、いくつかの異なる大きさと機能の脚部、それに張地の種類と色、これらを組み合わせると数えきれないバージョンが出来上がる。拙著『20世紀の椅子たち』ではアルミナムグループを「在庫のない椅子」と表現したが、あまりに多くのバージョンがあって完成在庫などできなかったのだ。
 正確に言えば、顧客の物件ごとの要求に対応するというビジネスモデルを構築した椅子であった。それもネジ類で組み立てるだけで。
 それを可能にした最たる点は、これまでの椅子は本体の布の張り加工に職人技を必要とし、手間と時間をかけて造られていたが、アルミナムグループは人体を支える布の座と背の部分を工業生産によるパーツとしたことである。それをネジでフレームに取りつけるだけだから注文後に短時間で組み立てることができたのだ。90年代以後の事務用椅子が猫も杓子も黒いメッシュ張りとなるが、アルミナムグループはその原点である。
 パーツを組み合わせて多くの椅子を造り出したのはミヒャエル・トーネットで、1859年(日本では江戸時代の安政5年)に代表作の「14番」という椅子を6個のパーツで組み立て世に送り出した。他にも多くの椅子を誕生させることができたのは、曲木のパーツを適宜組み合わせたからであった。
 左ページの図の中央は、工業製品がパーツを組み立て製品(あるいはコンポーネンツ)になり、それらが多くの要素(製品やコンポーネンツだけではなく社会のソフト面も含め)との関係からシステムにまでなることを示している基本的な図である。
 アルミナムグループは、トーネット以来100年を経てようやくパーツを組み立て椅子にする方法によってユーザーの要求に対応するビジネスモデルを構築したのである。
 ハーマンミラー社では1955年ごろからジョージ・ネルソンが中心となってビジネスの対象をオフィスなどの公共空間へと舵を切ったのだが、すぐには成果に結びつかなかったのは、モダン・デザインの家具など生きる空間がそれほど多くなかったからである。にもかかわらず、日本では50年代のアメリカでモダン・デザインの家具が華やいでいたような記述を見かけるのは、いったいなにを根拠にしているのだろうか。
 ようやくこの年にできたシーグラムビルが契機となり④、ニューヨークでも近代建築によるオフィスビルや商業施設などの公共空間が増え始めると、家具メーカー側それらのデザインを担当する専門家(建築家やデザイナー)の要求に対応することが求められた。その方向に応えるものとして、ネルソンがこの年より前に個別の物件に対応するシステム家具をデザインしていた。それは1956年にデザインした公共用ベンチの「モデュラー・シーティング・システム」⑤やオフィスの個室用の収納家具の「CSS」(1957)である。
 だが、イームズは単体の椅子として難しかったこのビジネスモデルをアルミナムグループによってつくりだしたのである。
 現在では生産と流通両面の効率から別注対応のビジネスモデル自体が姿を消してしまった。一部のモノを除きモノづくりが効率中心の世の中になった証である⑥。
 日本でも80年代になってポストモダニズムという風が吹き、オフィスやパブリック空間の家具も多様化やユーザーの要求に対応することを迫られたが、残念ながら実現できなかった。家具メーカーの流通が「代理店システム」をとっていて、多くの代理店はカタログ
に頼るビジネスしかせず、メーカー側も複雑な発注による生産を敬遠した。オフィスや公共の家具がコントラクト家具であるという視点が欠けていたからである。
 日本で専門家といえば、このころアメリカのなにを学んだのか知らないが、インテリアコーディネーターという資格制度ができ、あまり役に立たない専門家が誕生した。資格をとったが役に立たないと嘆く人のいかに多かったことか。それも当然で、アメリカでの「ビジネス」という側面を抜きにして形だけをまねたからである⑦。得たりとばかり資格取得のための専門学校をつくり商売にした抜け目のない人間だけが笑ったのだ。
 この年、日本ではアルミナムグループの対極にある一点集中大量生産の「チキンラーメン」という画期的なインスタント食品が誕生したことも挙げておこう。

① 日本でそれほど知られていないのは、1966年にハーマンミラー社と業務提携しFRPの椅子などを国産化した日本のモダンファニチュア・セールス社が国産化しなかったことも一つであろう。が、こんな大きなアルミ・ダイキャストのパーツは、当時の日本で技術面とコスト面から造れなかったことである。
② 入所してしばらくたった時、事務所で知ったことを口外してはならないことや事務所で考案したこと(権利)は事務所の所有になるなどの誓約書にサインさせられた。これも当時の日本のデザイン事務所では考えられなかったことである。
③ 1958年の発表時には4種類であったが、現在ハーマンミラー・ジャパンから「エクゼクティブチェア」として販売しているバージョンは1970年ごろに追加されたものである。
⑤ 「モデュラー・シーティング・システム」は公共空間のロビーなどを対象としたベンチとサイドテーブルとの組み合わせによるシステム家具で、1956年にデザイン・発売された。拙者『20世紀の椅子たち』の189頁参照。
⑥ 日本でも力のある建築家で発注量が多い場合はメーカーも対応したが、筆者が買って持ち帰ったアルミナムグループは、ネルソン事務所のインテリアデザイナーを介して一脚だけを個別の仕様で注文したものであった。
⑦ 誤解を招くので、多くを説明したいがその紙幅もない。少しだけ書き加えておくと、資格としてインテリアに関して少しの知識があるというだけではあまり意味がない。一級建築士のように資格がなければインテリアの仕事ができないというのであれば意味があったのだが。また、コーディネーター資格制度で最も欠落していた点は、インテリア関連メーカーとコーディネーターとの間で金銭的取引を明確にしなかったことである。インテリア関係の製造メーカーが代理店と同様にコーディネーターに商品を供給するシステムになっていたらもっと別の展開もあったと考えられる。資格制度だけが今も生きているのは不思議ですらある。

2年前