1958年 記念碑となったデザイン

(20世紀のデザインあれこれ78)
 この年のタイトルを「記念碑となったデザイン」などとすると、日本でこの年できた「東京タワー」か、と思われるだろうが、そうではない。
 あくまで世界を視野に、それも「モノ」、「建築」、「建築からモノまでの綜合」という三つの領域(テーマ)においてそれぞれ記念碑ともいうべきデザインが誕生した。
 それも日本、アメリカ、デンマークという三つの国において同時期に生まれたことなど一般的なデザイン史では語られることがなく、編年体ならではのことである。
 トップバッターは「モノ」の領域で、結果論になるのだが日本のホンダ(本田技研工業)が造った「スーパーカブ」。結果論というのは、この年の8月熊本の工場で造られた「スーパーカブC100」から数えて2017年の秋には世界累計生産が1億台に達したという。1億という数は容易にイメージできない天文学的数字で、消耗品や低価格品の類ならいざ知らず、少なくとも人を乗せて走る道具が、それも世界160か 国を市場として達成されたのだから奇跡である。さらに記念碑どころか、いまだに現役なのである。
 創業者である本田宗一郎が、当時の日本の道路事情がよくないことから50cc程度で、「オートバイでもスクーターでもないものをつくれ」という号令を出し、 社員一丸となって完成したのが「スーパーカブ」。デザインを担当した木村譲三郎は、より多くの人々を対象とするために「普遍性」をコンセプトに、多くのユーザーの意見を聞き、技術者とも議論を重ねながらデザインを進めたという。が、デザインを多くの人に適応させると凡庸なものになりがちである。だが、「スーパーカブ」が世界中の人々から永きにわたり好感を得たのは機能、価格など多くの要因であるが、デザインの力も大きかった。その一つは、フロントカバーからの部材をプラスティックで一体成型することにより、女性でも乗降がしやすいように跨ぎ空間を大きくステップスルータイプとし、機能性と造形に軽快感を生んだ。当時これほどの大きなプラスティックの成型は 難かしかったようだが、コスト面でも有効となった。
 日本での販売が好調に推移するなか、翌年には「ホンダ50」としてアメリカ市場へ進出。1963年には「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」により「スーパーカブがアメリカを変えた」とまで言わせ、東南アジアを はじめ世界進出を遂げていった。

 次に「建築」の領域で、この年ニューヨークのマンハッタンに記念碑ともいえる高層ビルが出現し、ニューヨーカーの度肝を抜いた。ミース・ファン・デル・ ローエが設計した「シーグラムビル」である。今もモダニズムによる高層ビルの決定版としてマンハッタンで圧倒的な輝きを放っている。
 このころから建設されはじめた超高層ビル。昨今では中近東などで奇抜な造形のものも増えつつあるが、シーグラムビルは単にカーテンウオールによる デザインの先進性だけではなく、プラザ(広場)という公共に開かれた空間を生む契機となったのである。
 このビルの写真を見ると、これだけの高層ビルで あるのに全体の姿が撮れている写真が多いのはなぜなのか。それは前面道路との間の空間、日本でいう「公開空地」のためである。これは当時のニューヨークにはゾーニング法という斜線規制があり、高層部分のセットバックを余儀なくされたが、この空間がミースのモダニズムを可能にしたのである。 ここを訪れるたびにパーク・アヴェニューとの間に 水があるだけで一本のみどりもない特異な空間はなんとも贅沢で、その空気感に圧倒される。
 このビルの設計者がミースに決まるまでには逸話もあった。今ではどこにも記されているが、シーグラムの社長であったサミュエル・ブロンフマンがビルの建設で設計者を模索していた1954年頃、建築を学ん でいた娘のフィリス・ランバート1が「ニューヨークはつ まらんビルばかり、私に設計者を決めさせて」と親父 を口説き、ミースをシカゴから連れてきたのだ。 さらに、私がIITでの学生時代、建築科の学生から「シーグラムの竣工後、フィリス・ランバートがここ(クラウンホール)で建築を学んでいた」と聞いて驚いた。やっぱり彼女もミース教の信者になったのか、と。
 ところがミースはニューヨークでの建築登録をしていなかったためフィリップ・ジョンソンに協力を仰ぎ、このビルにあった超高級レストラン「ザ・フォー・シーズン」(②残念ながら2016年閉店)は彼との共同デザインとなっている。一度は行ってみたいと思ったが、幻 のレストランになってしまった。ただシーグラムの北側にあったリーズナブルなレストラン「ブラッサリー」で 1988年、22年ぶりに会ったデーヴィッド・ローランド③と 朝飯会を重ねたことが懐かしい。
 三つめは北欧のデンマークに飛んで、ホテルを構成するさまざまな要素をアルネ・ヤコブセンが一人てデザインしたコペンハーゲン駅前の「ロイヤルホテル」④である。
 1967年、アメリカの旅行情報誌『ヨーロッパ1日5ドル旅行』を実践していた私がコペンハーゲン にやって来て、ホテルの前に立ったが泊まることなど考えら れない高嶺の花。そのロビーで恐る恐る「エッグチェア」に腰を下ろすのがやっとのことであった。60年代初頭、このホテルが世界中の建築家やデザイナーから注目されたのは、デンマークという国がデザインの黄金時代を迎えていたことに加えアルネ・ヤコブセンが建築から内部空間、家具からドアーノブに至るすべてをデザインし「トータルデザイン」という概念を誕生させ、ヤコブセンの世界を展開させていたからである。なかでもロビーに並んだ「エッグチェア」と「スワンチェア」は硬質発砲ウレタンという素材を成型して本体としたもので、椅子のつくり方を一新した デザイン。客室もヘッドボード周りの移動する照明器 具など一人のデザイナーがホテルのすべてをデザインすることなど空前絶後のこと。今では少し古び、 竣工当時の輝きは衰え改装も進んだが、客室の606号室は当時のまま保存されている。
 この三つのデザインは、単にこの年の記録として 捉えるべきではない。
 「スーパーカブ」はモノづくりが生きるための命綱であった日本の50年代末、開発に関わった人々の 情熱と汗の結晶として生まれ、今も現役であることは マーケティングによるモノづくりなどを越えたものとして日本のこの時期の記念碑である。
 「シーグラムビル」はこの時期のアメリカの経済的繁栄の象徴として、そのデザインは超高層ビルの決定版さらにプラザ(公開空地)という概念まで誕生させた。
 「ロイヤルホテル」は、人間の生活を基盤にデザインの黄金時代を迎えていたデンマーク。そこに生まれた「生活環境のすべてにデザインを」というヤコブセンの集大成。
 これらの三つは、それぞれの国の「時代表現」としてこれほど見事に表れた事象もない。偶然だとしても、1958年はなんという年であったのか。「デザインは時代表現である」を見せてくれた年であった。

① フィリス・ランバート(Phyllis Lambert、1927〜)はカナダに生まれ、建築を学んでいたが、父親(シーグラムの社長)がニューヨークに建設しようとしていたビルの設計者をミースに決め、プラニング・ディレクターを務めた。以後カナダ建築センターを建設するなど多方面で活躍しヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展の金獅子賞(2014)、ウルフ賞(芸術部門、2016)など受賞も多い。
② このレストランにも物語がある。壁画をマーク・ロスコに連作を依頼したが、ロスコが設置される空間などの点で気に入らず、制作を断ったのはよく知られた話。
③ デーヴィッド・ローランド(David Rowland,1923〜2010)はアメリカのデザイナー。代表作は「GF40/4」で、細いスティールのロッドで構成された椅子。拙著『20世紀の椅子たち』彰国社、252〜255頁参照。
④ 現在の「ラディソンSASロイヤルホテル」で1956年に着工し、1960年の竣工となっている記録もあるが、このホテルのためにデザインされたエッグチェアとスワンチェアが1958年のデザインであることからこの年のこととする。

2年前