生涯をモダンデザインの振興に賭したエドガー・カウフマンJr.について

(20世紀のデザインあれこれ19)
今月は、先々月からの続きで、第二次世界大戦後のアメリカでモダンデザインの振興・発展に貢献したエドガー・カウフマンJr. について書きます。

 このところイームズやネルソンをはじめとするアメリカのミッドセンチュリー・デザインに改めて光が当たり、その話題にもかまびすしいが、その発展に一人の男の飽くなき情熱があったことも忘れてはならないだろう。
 その男とは、フランク・ロイド・ライトが設計したあの「落水荘、Fallingwater」①のオーナーでもあったエドガー・カウフマンJr.である。
 エドガー・カウフマンJr.は1910年にフィラデルフィア州のピッツバークで生まれる。父親のエドガー・J・カウフマンはピッツバーグの百貨店「カウフマンズ」のオーナーで「百貨店王」ともいわれたが、慈善家でもあった。カウフマンJr.は少年時代から恵まれた環境の中で過ごすが、大学へは行かず、ウイーン、フローレンス、ロンドンなどで絵画やタイポグラフィーを学んでいる。
 彼を「デザイン」の世界に覚醒させたのは、帰国後の1933年からタリアセン・イースト②でフランク・ロイド・ライトの建築に対する考え方を学んだことにある。(その後に、父親の週末住宅の設計をライトに依頼し、今日アメリカが世界に誇る住宅の名建築「落水荘」が1939年に誕生した)
 家業に就いていた1940年、百貨店・「カウフマンズ」を代表してニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長であったアルフレッド・バー(Alfred Barr)③に手紙で生活用品に「有機的デザイン」の必要性を訴えたことがきっかけとなり、「生活装備の有機的デザイン」④をテーマとしたコンペがMoMA によって開催された。審査員にはマルセル・ブロイヤーやアルヴァ・アアルトの他、当時のMoMAのインダストリアルデザイン部門のディレクターであったエリオット・ノイス⑤らが並び、若き日のイームズとサーリネンがこのコンペに応募し受賞することで、彼らのデザイン人生が始まったことはよく知られている。
 カウフマンJr.はこのコンペを単にイベントで終わらせるのではなく、有力百貨店(ニューヨークのブルーミングデールズやシカゴのマーシャルフィールズを含む12もの一流百貨店)を巻き込み受賞作を制作・展示、さらに販売にまでつなげようと試み尽力したのは、「モダンデザイン」を大衆の生活の中に根付かせる点にあった。イームズらの受賞作は1941年に「オーガニック・チェア」として展示され、現在も復刻生産されている。
 以後、カウフマンJr.がアメリカのモダンデザインの振興・発展に果たした成果は枚挙にいとまがない。第二次世界大戦中はアメリカ空軍にも従事するが、大戦終結後の1946年にはMoMAのインダストリアルデザイン部門のディレクターとなり、48年の「ローコスト・ファニチャーの国際コンペ」を企画・実現させたことは彼の義挙ともいうべきイベントであった。このコンペからイームズのFRPの椅子を誕生させるなどその後の家具デザインの方向を決定づけたといっても過言ではない。
 カウフマンJr.がこのコンペで目指した方向を『WHAT IS MODERN DESIGN?』, The Museum of Modern Art,1950 (『近代デザインとは何か』生田勉訳、美術出版社)の中で「近代デザインは広く公衆に奉仕すべきで、大衆の要求を満足させることである」と明確に記していて、モダンデザインに対する彼の熱い「志」が伝わってくる。
 その一方、同年ヨーロッパ調査旅行でフィン・ユール⑥に出会ったことが彼やユールにとって、いやデンマーク家具にとっても大きな転機となる。ユールに最初に出会ったのはコペンハーゲンの「デンパーマネント」⑦であったというが、そこでユールの「NV−45」に出会い「こんな椅子があったのか」とそのユニークな造形と完成度の高さに感銘を受け、以後ユールとは終生の友となる。デンマーク家具が50年代から世界中で知れわたることとなったのはアメリカで認知されたからで、アメリカへの橋渡しの役を果たしたカウフマンJr.はある種「デンマーク家具の大使」の役割を果たしていた。
 極めつけは、1950年にグッドデザイン振興のためにMoMAがシカゴのマーチャンダイズマートと組み「グッドデザイン展」⑧を企画・開催したことである。これは48年の「ローコスト家具のコンペ」以来、彼の目指すモダンデザインによる商品を現実的にアピールすることを目的としたもので、家具をはじめ照明器具から台所用品など多岐にわたるグッドデザイン商品を展示し、販売につなげようとした。会場の展示デザインも一回目の1950年はイームズが、二回目にはフィン・ユール、三回目はポール・ルドルフ⑨、四回目はアレキサンダー・ジラード⑩と、一流の建築家やデザイナーに依頼。展示商品だけではなくトータルにデザインの力を示そうとしたカウフマンJr.の意図が表れていた。このプログラムは形を変えその後も続けられている。
 1960年には、モダンデザインの発展に大きな足跡を残した人を顕彰する「カウフマン国際デザイン賞」を創設。第一回はチャールス・イームズ、二回目がワルター・グロピウスであったことから学生時代の私などはデザインのノーベル賞ともとらえていた。賞金も2万ドルであったというが⑪、トロフィーのデザインはフィン・ユールがザインした。
 モダンデザインの振興に明け暮れた彼は1955 年に父親の死によってアメリカの至宝「落水荘」を譲り受ける。所有していた8年間にアルヴァ・アアルトをはじめマルセル・ブロイヤーやフィリップジョンソンなど名だたる建築家をはじめ多くの人たちを招いたという。そんな自らの週末住宅をペンシルバニア州⑫へ周囲の山林1750エーカーと50万ドルという大金を付けて寄付するのが1963年、カウフマンJr.53歳。人生まだまだこれからの時であり、維持費に困るような彼ではない。それはなんといっても「落水荘への想い」からであった。
 私が「落水荘」を訪れたのは公に公開されて以後の1988年であるが、案内してくれた老人が何度も口にした「これは国宝だ」というフレーズとともに自然と共生し創意溢れる造形は今も鮮やかに甦る。
 その後は1986年までコロンビア大学でアジャンクト・プロフェッサー(特任教授)として建築や美術を講じながら静かに暮らし、1989年に79歳でこの世を去った。亡くなる直前に脱稿していたのだろうか、ライトに関する九つのエッセイを記した『9 Commentaries on Frank Lloyd Wright』をその秋にMIT Press から上梓された。余談ながら、それは終生の友フィン・ユールが世を去った2か月後のことであった。
それにしても、人間60歳を過ぎ自らの力の衰えを知ると、やたら所属する組織や社会での地位を求め、それに執着する人間のなんと多いことか。そんなご時世だけに、モダンデザインの振興のためにやるべきことを全力でやり遂げ、私財までも投げ出し、静かな老後を過ごしたエドガー・カウフマンJr.の生きざまは「デザインの本質」そのもので、見事というほかはない。
 現在のデザインは当時と比べ造形面では飛躍的に成熟したが、デザインにかかわる人たち、なかでもデザイナーやデザイン教育者の自己中心的な面を目にするたびに、「デザインの心いずこへ」と思うこともしばしば。これも時代の所為なのだろうか。

① :『20世紀の椅子たち』 106頁参照。
② :タリアセン・イースト(Taliesin East 1911)はウイスコンシン州にライトによって建設された住宅を含む集住体で、ライトの建築学校のようなもの。1938年にはアリゾナの砂漠にタリアセン・ウエストが建設された。
③ :アルフレッド・バー(Alfred H. Barr, Jr.、 1902〜1981)はアメリカの著名な美術史家で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長として同館の発展に貢献した。
④ :コンペの英文名称は「Organic Design in Home Furnishing」
⑤ :『20世紀の椅子たち』 286頁参照。
⑥ :『20世紀の椅子たち』104〜107頁,124〜127頁参照。
⑦ :「20世紀の椅子たち」114頁参照。
⑧ :「グッドデザイン展」に関しては、『工芸ニュース』1954年1月号にロバート・ジョンソンや剣持勇がその概要などを記している。また、シカゴのマーチャンダイズマートについては『20世紀の椅子たち』 258頁参照。
⑨ :ポール・ルドルフ(Paul Rudolph、1918〜1997)は50年代から70年代に活躍したアメリカの建築家。イエール大学の建築学部の学部長まで務めた。代表作にイエール大学の美術・建築学部棟がある。
⑩ :『20世紀の椅子たち』213頁参照。
⑪:1960年当時の大学卒の初任給が12,000円程度であったから、2万ドルは約630か月分に相当し巨額であった。当時のアメリカにおいても相当の大きな金額で、「落水荘」を寄贈した時の50万ドルはけた外れの金額。
⑫:現在管理しているのは「The Western Pennsylvania Conservancy」

3年前